思議なくらいです。兄さんを上《かみ》に述べたように頭の中へ畳み込んだが最後、いかに遅鈍《ちどん》な私だって、御相手はでき悪《にく》い訳です。しかし事実私は今兄さんとこうして差向いで暮していながら、さほどに苦痛を感じてはいないのです。少くとも傍《はた》で想像するよりはよほど楽なのだろうと考えています。そうしてそれをなぜだと聞かれたら、ちょっと返答に差支《さしつか》えるのです。あなたも同じ兄さんについて同じ経験をなさりはしませんか。もし同じ経験をなさらないならば、骨肉を分けたあなたよりも、他人の私の方が、兄さんに親しい性質をもって生れて来たのでしょう。親しいというのは、ただ仲が好いと云う意味ではありません。和《わ》して納《おさ》まるべき特性をどこか相互に分担《ぶんたん》して前へ進めるというつもりなのです。
 私は旅へ出てから絶えず兄さんの気に障《さわ》るような事を云ったりしたりしました。ある時は頭さえ打《ぶ》たれました。それでも私はあなたの家庭のすべての人の前に立って、私はまだ兄さんから愛想を尽かされていないという事を明言できると思います。同時に、一種の弱点を持ったこの兄さんを、私は今でも衷心《ちゅうしん》から敬愛していると固く信じて疑わないのであります。
 兄さんは私のような凡庸《ぼんよう》な者の前に、頭を下げて涙を流すほどの正しい人です。それをあえてするほどの勇気をもった人です。それをあえてするのが当然だと判断するだけの識見を具《そな》えた人です。兄さんの頭は明か過ぎて、ややともすると自分を置き去りにして先へ行きたがります。心の他《ほか》の道具が彼の理智と歩調を一つにして前へ進めないところに、兄さんの苦痛があるのです。人格から云えばそこに隙間《すきま》があるのです。成功から云えばそこに破滅が潜《ひそ》んでいるのです。この不調和を兄さんのために悲しみつつある私は、すべての原因をあまりに働き過ぎる彼の理智の罪に帰《き》しながら、やっぱり、その理智に対する敬意を失う事ができないのです。兄さんをただの気むずかしい人、ただのわがままな人とばかり解釈していては、いつまで経《た》っても兄さんに近寄る機会は来ないかも知れません。したがって少しでも兄さんの苦痛を柔《やわら》げる縁は、永劫《えいごう》に去ったものと見なければなりますまい。
 我々は前《ぜん》申した通り箱根を立ちました。
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