んもまた存在しなくなるのです。
兄さんは神でも仏《ほとけ》でも何でも自分以外に権威のあるものを建立《こんりゅう》するのが嫌《きら》いなのです。(この建立という言葉も兄さんの使ったままを、私が踏襲《とうしゅう》するのです)。それではニイチェのような自我を主張するのかというとそうでもないのです。
「神は自己だ」と兄さんが云います。兄さんがこう強い断案を下す調子を、知らない人が蔭《かげ》で聞いていると、少し変だと思うかも知れません。兄さんは変だと思われても仕方のないような激した云い方をします。
「じゃ自分が絶対だと主張すると同じ事じゃないか」と私が非難します。兄さんは動きません。
「僕は絶対だ」と云います。
こういう問答を重《かさ》ねれば重ねるほど、兄さんの調子はますます変になって来ます。調子ばかりではありません、云う事もしだいに尋常を外《はず》れて来ます。相手がもし私のようなものでなかったならば、兄さんは最後まで行かないうちに、純粋な気違として早く葬られ去ったに違ありません。しかし私はそう容易《たやす》く彼を見棄《みす》てるほどに、兄さんを軽んじてはいませんでした。私はとうとう兄さんを底まで押しつめました。
兄さんの絶対というのは、哲学者の頭から割り出された空《むな》しい紙の上の数字ではなかったのです。自分でその境地《きょうち》に入って親しく経験する事のできる判切《はっきり》した心理的のものだったのです。
兄さんは純粋に心の落ちつきを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだと云います。一度《ひとたび》この境界《きょうがい》に入れば天地も万有も、すべての対象というものがことごとくなくなって、ただ自分だけが存在するのだと云います。そうしてその時の自分は有るとも無いとも片のつかないものだと云います。偉大なようなまた微細なようなものだと云います。何とも名のつけようのないものだと云います。すなわち絶対だと云います。そうしてその絶対を経験している人が、俄然《がぜん》として半鐘《はんしょう》の音を聞くとすると、その半鐘の音はすなわち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表わすと、絶対即相対になるのだというのです、したがって自分以外に物を置き他《ひと》を作って、苦しむ必要がなくなるし、また苦しめられる掛念《けねん》も起らないのだと云うのです。
「根本義《こんぽんぎ
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