ん。声だって彼よりも遥《はるか》に野獣らしいのです。しかもその原始的な叫びは、口を出るや否や、すぐ風に攫《さら》って行かれます。それをまた雨が追いかけて砕き尽します。兄さんはしばらくして沈黙に帰りました。けれどもまだ歩き廻りました。呼息《いき》が切れて仕方なくなるまで歩き廻りました。
 我々が濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》のようになって宿へ帰ったのは、出てから一時間目でしたろうか、また二時間目にかかりましたろうか。私は臍《へそ》の底《そこ》まで冷えました。兄さんは唇《くちびる》の色を変えていました。湯に這入《はい》って暖まった時、兄さんはしきりに「痛快だ」と云いました。自然に敵意がないから、いくら征服されても痛快なんでしょう。私はただ「御苦労な事だ」と云って、風呂のなかで心持よく足を伸ばしました。
 その晩は予期に反して、隣の室《へや》がひっそりと静まっていました。下女に聞いて見ると、兄さんを悩ました昨夕《ゆうべ》の客は、いつの間にかもう立ってしまったのでした。私が兄さんから思いがけない宗教観を聞かされたのはその宵《よい》の事です。私はちょっと驚きました。

        四十四

 あなたも現代の青年だから宗教という古めかしい言葉に対してあまり同情は持っていられないでしょう。私も小《こ》むずかしい事はなるべく言わずにすましたいのです。けれども兄さんを理解するためには、ぜひともそこへ触れて来なければなりません。あなたには興味もなかろうし、また意外でもあろうけれども、それを遠慮する以上、肝腎《かんじん》の兄さんが不可解になるだけだから、辛抱してここのところをとばさずに読んで下さい。辛抱さえなされば、あなたにはよく解る事なんです。読んでそうして善《よ》く兄さんを呑《の》み込んだ上、御老人方の合点《がてん》のゆかれるように御宅へ紹介して上げて下さい。私は兄さんについて過度の心労をされる御年寄に対して実際御気の毒に思っています。しかし今のところあなたを通してよりほかに、ありのままの兄さんを、兄さんの家庭に知らせる手段はないのだから、あなたも少し真面目《まじめ》になって、聞き慣れない字面《じづら》に眼を御注《おそそ》ぎなさい。私は酔興《すいきょう》でむずかしい事を書くのではありません。むずかしい事が活きた兄さんの一部分なのだから仕方がないのです。二つを引き離すと血や肉からできた兄さ
前へ 次へ
全260ページ中245ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング