が、寝られないのもまた愉快なものだ」と私が云いました。
「どうして」と今度は兄さんが聞きました。私はその時私の覚えていた灯影無睡《とうえいむすい》を照《てら》し心清妙香《しんせいみょうこう》を聞《き》くという古人の句を兄さんのために挙《あ》げました。すると兄さんはたちまち私の顔を見てにやにや笑いました。
「君のような男にそういう趣《おもむき》が解るかね」と云って、不審そうな様子をしました。

        三十六

 その日私はまた兄さんを引張《ひっぱ》り出して今度は山へ行きました。上を見て山に行き、下を向いて湯に入る、それよりほかにする事はまずない所なのですから。
 兄さんは痩《や》せた足を鞭《むち》のように使って細い道を達者に歩きます。その代り疲れる事もまた人一倍早いようです。肥った私がのそのそ後《あと》から上《あが》って行くと、木の根に腰をかけて、せえせえ云っています。兄さんのは他《ひと》を待ち合せるのではありません。自分が呼息《いき》を切らしてやむをえずに斃《たお》れるのです。
 兄さんは時々立ち留まって茂みの中に咲いている百合《ゆり》を眺めました。一度などは白い花片《はなびら》をとくに指して、「あれは僕の所有だ」と断りました。私にはそれが何の意味だか解りませんでしたが、別に聞き返す気も起らずに、とうとう天辺《てっぺん》まで上《のぼ》りました。二人でそこにある茶屋に休んだ時、兄さんはまた足の下に見える森だの谷だのを指《さ》して、「あれらもことごとく僕の所有だ」と云いました。二度まで繰り返されたこの言葉で、私は始めて不審を起しました。しかしその不審はその場ですぐ晴らす訳に行きませんでした。私の質問に対する兄さんの答は、ただ淋《さび》しい笑に過ぎなかったのです。
 我々はその茶店の床几《しょうぎ》の上で、しばらく死んだように寝ていました。その間兄さんは何を考えていたか知りません。私はただ明らかな空を流れる白い雲の様子ばかり見ていました。私の眼はきらきらしました。しだいに帰《かえ》り途《みち》の暑さが想《おも》いやられるようになりました。私は兄さんを促《うなが》してまた山を下りました。その時です。兄さんが突然|後《うしろ》から私の肩をつかんで、「君の心と僕の心とはいったいどこまで通じていて、どこから離れているのだろう」と聞いたのは。私は立ちどまると同時に、左の肩
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