った稲の穂が膏雨《こうう》を得たように蘇《よみが》える。同時にその顔――何も考えていない、全く落ちつき払ったその顔が、大変気高く見える。眼が下っていても、鼻が低くっても、雑作《ぞうさく》はどうあろうとも、非常に気高く見える。僕はほとんど宗教心に近い敬虔《けいけん》の念をもって、その顔の前に跪《ひざま》ずいて感謝の意を表したくなる。自然に対する僕の態度も全く同じ事だ。昔のようにただうつくしいから玩《もてあそ》ぶという心持は、今の僕には起る余裕がない」
 兄さんはその時電車のなかで偶然見当る尊《たっと》い顔の部類の中《うち》へ、私を加えました。私は思いも寄らん事だと云って辞退しました。すると兄さんは真面目《まじめ》な態度でこう云いました。
「君でも一日のうちに、損も得も要《い》らない、善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔に出している事が、一度や二度はあるだろう。僕の尊いというのは、その時の君の事を云うんだ。その時に限るのだ」
 兄さんはこう云われても覚束《おぼつか》なく見える私のために、具体的な証拠を示してやるというつもりか、昨夜《ゆうべ》二人が床に入る前の私を取って来てその例に引きました。兄さんはあの折談話の機《はずみ》でつい興奮し過ぎたと自白しました。しかし私の顔を見たときに、その激した心の調子がしだいに収まったと云うのです。私が肯《うけが》おうと肯うまいと、それには頓着《とんじゃく》する必要がない、ただその時の私から好い影響を受けて、一時的にせよ苦しい不安を免《まぬ》かれたのだと、兄さんは断言するのです。
 その時の私は前《ぜん》云った通りです。ただ煙草《たばこ》を吹かして黙っていただけです。私はその時すべての事を忘れました。独《ひと》り兄さんをどうにかしてこの不安の裡《うち》から救って上げたいと念じました。けれども私の心が兄さんに通じようとは思いませんでした。また通じさせようという気は無論ありませんでした。だから何にも云わずに黙って煙草を吹かしていたのです。しかしそこに純粋な誠があったのかも知れません。兄さんはその誠を私の顔に読んだのでしょうか。
 私は兄さんと砂浜の上をのそりのそりと歩きました。歩きながら考えました。兄さんは早晩宗教の門を潜《くぐ》って始めて落ちつける人間ではなかろうか。もっと強い言葉で同じ意味を繰り返すと、兄さんは宗教家になるた
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