のどこをどんな断片に切って見ても、たといその断片の長さが一時間だろうと三十分だろうと、それがきっと同じ運命を経過しつつあるから恐ろしい。要するに僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、そのまた不安を、一刻一分の短時間に煮つめた恐ろしさを経験している」
「それはいけない。もっと気を楽にしなくっちゃ」
「いけないぐらいは自分にも好く解っている」
 私は兄さんの前で黙って煙草《たばこ》を吹かしていました。私は心のうちで、どうかして兄さんをこの苦痛から救い出して上げたいと念じました。私はすべてその他の事を忘れました。今までじっと私の顔を見守っていた兄さんは、その時突然「君の方が僕より偉《えら》い」と云いました。私は思想の上において、兄さんこそ私に優《すぐ》れていると感じている際でしたから、この賛辞に対して嬉《うれ》しいともありがたいとも思う気は起りませんでした。私はやはり黙って煙草を吹かしていました。兄さんはだんだん落ちついて来ました。それから二人とも一つ蚊帳《かや》に這入《はい》って寝ました。

        三十三

 翌日《あくるひ》も我々は同じ所に泊《とま》っていました。朝起き抜けに浜辺を歩いた時、兄さんは眠っているような深い海を眺めて、「海もこう静かだと好いね」と喜びました。近頃の兄さんは何でも動かないものが懐《なつ》かしいのだそうです。その意味で水よりも山が気に入るのでした。気に入ると云っても、普通の人間が自然を楽しむ時の心持とは少し違うようです。それは下《しも》に挙《あ》げる兄さんの言葉で御解りになるでしょう。
「こうして髭《ひげ》を生やしたり、洋服を着たり、シガーを銜《くわ》えたりするところは上部《うわべ》から見ると、いかにも一人前《ひとりまえ》の紳士らしいが、実際僕の心は宿なしの乞食《こじき》みたように朝から晩までうろうろしている。二六時中不安に追いかけられている。情ないほど落ちつけない。しまいには世の中で自分ほど修養のできていない気の毒な人間はあるまいと思う。そういう時に、電車の中やなにかで、ふと眼を上げて向う側を見ると、いかにも苦《く》のなさそうな顔に出っ食わす事がある。自分の眼が、ひとたびその邪念の萌《きざ》さないぽかんとした顔に注《そそ》ぐ瞬間に、僕はしみじみ嬉しいという刺戟《しげき》を総身《そうしん》に受ける。僕の心は旱魃《かんばつ》に枯れかか
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