つ》ままれた気味で坐っていた。
舞楽が一段落ついた時に、御茶を上げますと誰かが云ったので周囲の人は席を立って別室に動き始めた。そこへ先刻《さっき》三沢と約束の整ったという女の兄《あに》さんが来て、物馴《ものな》れた口調で彼と話した。彼はこういう方面に関係のある男と見えて、当日案内を受けた誰彼をよく知っていた。三沢と自分はこの人から今までそこいらにいた華族や高官や名士の名を教えて貰った。
別室には珈琲《コーヒー》とカステラとチョコレートとサンドイッチがあった。普通の会の時のように、無作法《ぶさほう》なふるまいは見受けられなかったけれども、それでも多少込み合うので、女は坐《すわ》ったなり席を立たないのがあった。三沢と彼の知人は、菓子と珈琲を盆の上に載せて、わざわざ二人の御嬢さんの所へ持って行った。自分はチョコレートの銀紙を剥《はが》しながら、敷居の上に立って、遠くからその様子を偸《ぬす》むように眺めていた。
三沢の細君になるべき人は御辞義《おじぎ》をして、珈琲|茶碗《ぢゃわん》だけを取ったが、菓子には手を触れなかった。いわゆる「もう一人の女」はその珈琲茶碗にさえ容易《たやす》く手を出さなかった。三沢は盆を持ったまま、引く事もできず進む事もできない態度で立っていた。女の顔が先刻《さっき》見た時よりも子供子供した苦痛の表情に充《み》ちていた。
二十
自分は先刻から「もう一人の女」に特別の注意を払っていた。それには三沢の様子や態度が有力な原因となって働いていたに違ないが、単独に云っても、彼女は自分の視線を引着けるに足るほどな好い器量《きりょう》をもっていたのである。自分は彼女と三沢の細君になるべき人との後姿《うしろすがた》を、舞楽《ぶがく》の相間相間に絶えず眺めた。彼らは自分の坐っている所から、ことさらな方向に眸子《ひとみ》を転ずる事なしに、自然と見られるように都合の好い地位に坐っていた。
こうして首筋ばかり眺めていた自分は今比較的自由な場所に立って、彼らの顔立を筋違《すじかい》に見始めた。あるいは正面に動く機会が来るかも知れないと思った時、自分はチョコレートを頬張《ほおば》りながら、暗《あん》にその瞬間を捉《とら》える注意を怠《おこた》らなかった。けれどもその女も三沢の意中の人も、ついにこっちを向かなかった。自分はただ彼らの容貌《ようぼう》を三
前へ
次へ
全260ページ中209ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング