に豊富な知識をもっていた。
 自分はまた彼女が来るたびに、兄の事を聞くのを忘れなかった。
「兄さんはどうだい」
「どうだいって、あなたこそ悪いわ。家《うち》へ来ても兄さんに逢《あ》わずに帰るんだから」
「わざわざ避けるんじゃない。行ってもいつでも留守なんだから仕方がない」
「嘘《うそ》をおっしゃい。この間来た時も書斎へ這入《はい》らずに逃げた癖に」
 お重は自分より正直なだけに真赤《まっか》になった。自分はあの事件以後どうかして兄と故《もと》の通り親しい関係になりたいと心では希望していたが、実際はそれと反対で、何だか近寄り悪《にく》い気がするので、全くお重の云うごとく、宅《うち》へ行って彼に挨拶《あいさつ》する機会があっても、なるべく会わずに帰る事が多かった。
 お重にやり込められると、自分は無言の降意を表するごとくにあははと笑ったり、わざと短い口髭《くちひげ》を撫《な》でたり、時によると例の通り煙草に火を点《つ》けて瞹眛《あいまい》な煙を吐いたりした。
 そうかと思うとかえってお重の方から突然「大兄さんもずいぶん変人ね。あたし今になって全くあなたが喧嘩《けんか》して出たのも無理はないと思うわ」などと云った。お重から藪《やぶ》から棒にこう驚かされると、自分は腹の底で自分の味方が一人|殖《ふ》えたような気がして嬉《うれ》しかった。けれども表向彼女の意見に相槌《あいづち》を打つほどの稚気《ちき》もなかった。叱りつけるほどの衒気《げんき》もなかった。ただ彼女が帰った後で、たちまち今までの考えが逆《さかさ》まになって、兄の精神状態が周囲に及ぼす影響などがしきりに苦になった。だんだん生物から孤立して、書物の中に引き摺《ず》り込まれて行くように見える彼を平生よりも一倍気の毒に思う事もあった。

        三十八

 母も一二遍来た。最初来た時は大変|機嫌《きげん》が好かった。隣の座敷にいる法学士はどこへ出て何を勤めているのだなどと、自分にも判然《はっきり》解らないような事を、さも大事らしく聞いたりした。その時彼女は宅《うち》の近況について何にも語らずに、「この頃は方々で風邪《かぜ》が流行《はや》るから気をおつけ。お父さんも二三日《にさんち》前から咽喉《のど》が痛いって、湿布《しっぷ》をしてお出でだよ」と注意して去った。自分は彼女の去った後《あと》、兄夫婦の事を思い出す暇さ
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