つつ、十三世紀だか十四世紀だか解らない遠い昔の以太利《イタリー》の物語をした。自分はその間やっとの事で、不愉快の念を抑えていた。ところが物語が一応済むと、彼は急に思いも寄らない質問を自分に掛けた。
「二郎、なぜ肝心《かんじん》な夫の名を世間が忘れてパオロとフランチェスカだけ覚えているのか。その訳を知ってるか」
自分は仕方がないから「やっぱり三勝半七《さんかつはんしち》見たようなものでしょう」と答えた。兄は意外な返事にちょっと驚いたようであったが、「おれはこう解釈する」としまいに云い出した。
「おれはこう解釈する。人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸《かも》した恋愛の方が、実際神聖だから、それで時を経《ふ》るに従がって、狭い社会の作った窮屈な道徳を脱ぎ棄《す》てて、大きな自然の法則を嘆美する声だけが、我々の耳を刺戟《しげき》するように残るのではなかろうか。もっともその当時はみんな道徳に加勢する。二人のような関係を不義だと云って咎《とが》める。しかしそれはその事情の起った瞬間を治めるための道義に駆《か》られた云わば通り雨のようなもので、あとへ残るのはどうしても青天と白日、すなわちパオロとフランチェスカさ。どうだそうは思わんかね」
二十八
自分は年輩から云っても性格から云っても、平生なら兄の説に手を挙《あ》げて賛成するはずであった。けれどもこの場合、彼がなぜわざわざパオロとフランチェスカを問題にするのか、またなぜ彼ら二人が永久に残る理由《いわれ》を、物々しく解説するのか、その主意が分らなかったので、自然の興味は全く不快と不安の念に打ち消されてしまった。自分は奥歯に物の挟《はさ》まったような兄の説明を聞いて、必竟《ひっきょう》それがどうしたのだという気を起した。
「二郎、だから道徳に加勢するものは一時の勝利者には違ないが、永久の敗北者だ。自然に従うものは、一時の敗北者だけれども永久の勝利者だ……」
自分は何とも云わなかった。
「ところがおれは一時の勝利者にさえなれない。永久には無論敗北者だ」
自分はそれでも返事をしなかった。
「相撲《すもう》の手を習っても、実際力のないものは駄目だろう。そんな形式に拘泥《こうでい》しないでも、実力さえたしかに持っていればその方がきっと勝つ。勝つのは当り前さ。四十八手は人間の小刀細工だ。膂力《りょりょく》は自
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