時、自分はしばらく茫然《ぼうぜん》として兄の顔を打ち守っていた。彼がわざとこう云う失礼な皮肉を云うのか、そうでなければ彼の頭に少し変調を来《きた》したのか、どっちだか解らないうちは、自分にもどの見当《けんとう》へ打って出て好いものか、料簡《りょうけん》が定まらなかった。
彼の言葉は平生から皮肉《ひにく》たくさんに自分の耳を襲った。しかしそれは彼の智力が我々よりも鋭敏に働き過ぎる結果で、その他に悪気のない事は、自分によく呑み込めていた。ただこの一言《いちごん》だけは鼓膜《こまく》に響いたなり、いつまでもそこでじんじん熱く鳴っていた。
兄は自分の顔を見て、えへへと笑った。自分はその笑いの影にさえ歇斯的里性《ヒステリせい》の稲妻《いなずま》を認めた。
「無論一人で出る気だろう。誰も連れて行く必要はないんだから」
「もちろんです。ただ一人になって、少し新しい空気を吸いたいだけです」
「新しい空気はおれも吸いたい。しかし新しい空気を吸わしてくれる所は、この広い東京に一カ所もない」
自分は半《なか》ばこの好んで孤立している兄を憐《あわ》れんだ。そうして半ば彼の過敏な神経を悲しんだ。
「ちっと旅行でもなすったらどうです。少しは晴々《せいせい》するかも知れません」
自分がこう云った時、兄はチョッキの隠袋《かくし》から時計を出した。
「まだ食事の時間には少し間があるね」と云いながら、彼は再び椅子《いす》に腰を落ちつけた。そうして「おい二郎もうそうたびたび話す機会もなくなるから、飯ができるまでここで話そうじゃないか」と自分の顔を見た。
自分は「ええ」と答えたが、少しも尻《しり》は坐《すわ》らなかった。その上何も話す種がなかった。すると兄が突然「お前パオロとフランチェスカの恋を知ってるだろう」と聞いた。自分は聞いたような、聞かないような気がするので、すぐとは返事もできなかった。
兄の説明によると、パオロと云うのはフランチェスカの夫の弟で、その二人が夫の眼を忍んで、互に慕《した》い合った結果、とうとう夫に見つかって殺されるという悲しい物語りで、ダンテの神曲の中とかに書いてあるそうであった。自分はその憐れな物語に対する同情よりも、こんな話をことさらにする兄の心持について、一種|厭《いや》な疑念を挟《さしは》さんだ。兄は臭《くさ》い煙草の煙の間から、始終《しじゅう》自分の顔を見つめ
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