っさい云われない事になっている。約束だからね。それは好いが、そいつが私《わたし》にその盲目の女のいる所を訪問してくれと頼むんだね。何という主意か解らないが、つまりは無沙汰見舞《ぶさたみまい》のようなものさ。当人に云わせると、学問しただけに、鹿爪《しかつめ》らしい理窟《りくつ》を何《なん》が条《じょう》も並べるけれども。つまり過去と現在の中間を結びつけて安心したいのさ。それにどうして盲目になったか、それが大変当人の神経を悩ましていたと見えてね。と云っていまさらその女と新しい関係をつける気はなし、かつは女房子《にょうぼこ》の手前もあるから、自分はわざわざ出かけたくないのさ。のみならず彼がまた昔その女と別れる時余計な事を饒舌《しゃべ》っているんです。僕は少し学問するつもりだから三十五六にならなければ妻帯しない。でやむをえずこの間の約束は取消にして貰うんだってね。ところが奴《やつ》学校を出るとすぐ結婚しているんだから良心の方から云っちゃあまり心持はよくないのだろう。それでとうとう私《わたし》が行く事になった」
「まあ馬鹿らしい」と嫂《あによめ》が云った。
「馬鹿らしかったけれどもとうとう行ったよ」と父が答えた。客も自分も興味ありげに笑い出した。
十六
父には人に見られない一種|剽軽《ひょうきん》なところがあった。ある者は直《ちょく》な方《かた》だとも云い、ある者は気のおけない男だとも評した。
「親爺《おやじ》は全くあれで自分の地位を拵《こしら》え上げたんだね。実際のところそれが世の中なんだろう。本式に学問をしたり真面目に考えを纏《まと》めたりしたって、社会ではちっとも重宝がらない。ただ軽蔑《けいべつ》されるだけだ」
兄はこんな愚痴とも厭味《いやみ》とも、また諷刺《ふうし》とも事実とも、片のつかない感慨を、蔭《かげ》ながらかつて自分に洩《も》らした事があった。自分は性質から云うと兄よりもむしろ父に似ていた。その上年が若いので、彼のいう意味が今ほど明瞭《めいりょう》に解らなかった。
何しろ父がその男に頼まれて、快よく訪問を引受けたのも、多分持って生れた物数奇《ものずき》から来たのだろうと自分は解釈している。
父はやがてその盲目《めくら》の家を音信《おとず》れた。行く時に男は土産《みやげ》のしるしだと云って、百円札を一枚紙に包んで水引をかけたのに、大き
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