手引で不意に会った。会ったのは東京の真中であった。しかも有楽座で名人会とか美音会《びおんかい》とかのあった薄ら寒い宵《よい》の事だそうである。
 その時男は細君と女の子を連れて、土間《どま》の何列目か知らないが、かねて注文しておいた席に並んでいた。すると彼らが入場して五分|経《た》つか立たないのに、今云った女が他の若い女に手を引かれながら這入《はい》って来た。彼らも電話か何かで席を予約しておいたと見えて、男の隣にあるエンゲージドと紙札を張った所へ案内されたままおとなしく腰をかけた。二人はこういう奇妙な所で、奇妙に隣合わせに坐った。なおさら奇妙に思われたのは、女の方が昔と違った表情のない盲目《めくら》になってしまって、ほかにどんな人がいるか全く知らずに、ただ舞台から出る音楽の響にばかり耳を傾けているという、男に取ってはまるで想像すらし得なかった事実であった。
 男は始め自分の傍《そば》に坐る女の顔を見て過去二十年の記憶を逆《さか》さに振られたごとく驚ろいた。次に黒い眸《ひとみ》をじっと据《す》えて自分を見た昔の面影《おもかげ》が、いつの間にか消えていた女の面影に気がついて、また愕然《がくぜん》として心細い感に打たれた。
 十時過まで一つの席にほとんど身動きもせずに坐っていた男は、舞台で何をやろうが、ほとんど耳へは這入らなかった。ただ女に別れてから今日《こんにち》に至る運命の暗い糸を、いろいろに想像するだけであった。女はまたわが隣にいる昔の人を、見もせず、知りもせず、全く意識に上《のぼ》す暇《いとま》もなく、ただ自然に凋落《ちょうらく》しかかった過去の音楽に、やっとの思いで若い昔を偲《しの》ぶ気色《けしき》を濃い眉《まゆ》の間に示すに過ぎなかった。
 二人は突然として邂逅《かいこう》し、突然として別れた。男は別れた後《のち》もしばしば女の事を思い出した。ことに彼女の盲目が気にかかった。それでどうかして女のいる所を突きとめようとした。
「馬鹿正直なだけに熱心な男だもんだから、とうとう成功した。その筋道も聞くには聞いたが、くだくだしくって忘れちまったよ。何でも彼がその次に有楽座へ行った時、案内者を捕《つら》まえて、何とかかんとかした上に、だいぶ込み入った手数《てかず》をかけたんだそうだ」
「どこにいたんですその女は」と自分は是非確めたくなった。
「それは秘密だ。名前や所はい
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