もいいようでまたどっちも悪いようであった。自分は吸物|椀《わん》を手にしたままぼんやり庭の方を眺めていた。
「何を考えていらっしゃるの」と嫂が聞いた。
「何、降りゃしまいかと思ってね」と自分はいい加減な答をした。
「そう。そんなに御天気が怖《こわ》いの。あなたにも似合わないのね」
「怖かないけど、もし強雨《ごうう》にでもなっちゃ大変ですからね」
自分がこう云っている内に、雨はぽつりぽつりと落ちて来た。よほど早くからの宴会でもあるのか、向うに見える二階の広間に、二三人|紋付《もんつき》羽織《はおり》の人影が見えた。その見当で芸者が三味線の調子を合わせている音が聞え出した。
宿を出るときすでにざわついていた自分の心は、この時一層落ちつきを失いかけて来た。自分は腹の中で、今日はとてもしんみりした話をする気になれないと恐れた。なぜまたその今日に限って、こんな変な事を引受けたのだろうと後悔もした。
三十
嫂はそんな事に気のつくはずがなかった。自分が雨を気にするのを見て、彼女はかえって不思議そうに詰《なじ》った。
「何でそんなに雨が気になるの。降れば後が涼しくなって好いじゃありませんか」
「だっていつやむか解らないから困るんです」
「困りゃしないわ。いくら約束があったって、御天気のせいなら仕方がないんだから」
「しかし兄さんに対して僕の責任がありますよ」
「じゃすぐ帰りましょう」
嫂《あによめ》はこう云って、すぐ立ち上った。その様子には一種の決断があらわれていた。向《むこう》の座敷では客の頭が揃《そろ》ったのか、三味線の音《ね》が雨を隔てて爽《さわや》かに聞え出した。電灯もすでに輝いた。自分も半《なか》ば嫂の決心に促《うなが》されて、腰を立てかけたが、考えると受合って来た話はまだ一言《ひとこと》も口へ出していなかった。後《おく》れて帰るのが母や兄にすまないごとく、少しも嫂に肝心《かんじん》の用談を打ち明けないのがまた自分の心にすまなかった。
「姉さんこの雨は容易にやみそうもありませんよ。それに僕は姉さんに少し用談があって来たんだから」
自分は半分空を眺めてまた嫂をふり返った。自分は固《もと》よりの事、立ち上った彼女も、まだ帰る仕度《したく》は始めなかった。彼女は立ち上ったには、立ち上ったが、自分の様子しだいでその以後の態度を一定しようと、五分の隙間
前へ
次へ
全260ページ中94ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング