《ともしび》を点《つ》けたのが遠くから皮膚をほてらしているようであった。しかし自分はその意味を深くも考えなかった。
 和歌山へ着いた時、二人は電車を降りた。降りて始めて自分は和歌山へ始めて来た事を覚《さと》った。実はこの地を見物する口実の下《もと》に、嫂《あによめ》を連れて来たのだから、形式にもどこか見なければならなかった。
「あらあなたまだ和歌山を知らないの。それでいて妾《あたし》を連れて来るなんて、ずいぶん呑気《のんき》ね」
 嫂は心細そうに四方《あたり》を見廻した。自分も何分かきまりが悪かった。
「俥《くるま》へでも乗って車夫に好い加減な所へ連れて行って貰いましょうか。それともぶらぶら御城の方へでも歩いて行きますか」
「そうね」
 嫂は遠くの空を眺めて、近い自分には眼を注がなかった。空はここも海辺《かいへん》と同じように曇っていた。不規則に濃淡を乱した雲が幾重《いくえ》にも二人の頭の上を蔽《おお》って、日を直下《じか》に受けるよりは蒸し熱かった。その上いつ驟雨《しゅうう》が来るか解らないほどに、空の一部分がすでに黒ずんでいた。その黒ずんだ円《えん》の四方が暈《ぼか》されたように輝いて、ちょうど今我々が見捨《みす》てて来た和歌の浦の見当に、凄《すさま》じい空の一角を描き出していた。嫂は今その気味の悪い所を眉《まゆ》を寄せて眺めているらしかった。
「降るでしょうか」
 自分は固《もと》より降るに違ないと思っていた。それでとにかく俥を雇って、見るだけの所を馳《か》け抜けた方が得策だと考えた。自分は直《ただち》に俥を命じて、どこでも構わないからなるべく早く見物のできるように挽《ひ》いて廻れと命じた。車夫は要領を得たごとくまた得ないごとく、むやみに駆けた。狭い町へ出たり、例の蓮《はす》の咲いている濠《ほり》へ出たりまた狭い町へ出たりしたが、いっこうこれぞという所はなかった。最後に自分は俥の上で、こう駆けてばかりいては肝心《かんじん》の話ができないと気がついて、車夫にどこかゆっくり坐《すわ》って話のできる所へ連れて行けと差図《さしず》した。

        二十九

 車夫は心得て駆け出した。今までと違って威勢があまり好過《よす》ぎると思ううちに、二人の俥は狭い横町を曲って、突然大きな門を潜《くぐ》った。自分があわてて、車夫を呼び留めようとした時、梶棒《かじぼう》はすで
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