ましてそんな……探偵じゃあるまいし……」
「二郎、おれはそんな下等な行為をお前から向うへ仕かけてくれと頼んでいるのじゃない。単に嫂としまた弟として一つ所へ行って一つ宿へ泊ってくれというのだ。不名誉でも何でもないじゃないか」
「兄さんは僕を疑ぐっていらっしゃるんでしょう。そんな無理をおっしゃるのは」
「いや信じているから頼むのだ」
「口で信じていて、腹では疑ぐっていらっしゃる」
「馬鹿な」
兄と自分はこんな会話を何遍も繰返した。そうして繰返すたびに双方共激して来た。するとちょっとした言葉から熱が急に引いたように二人共治まった。
その激したある時に自分は兄を真正の精神病患者だと断定した瞬間さえあった。しかしその発作《ほっさ》が風のように過ぎた後《あと》ではまた通例の人間のようにも感じた。しまいに自分はこう云った。
「実はこの間から僕もその事については少々考えがあって、機会があったら姉さんにとくと腹の中を聞いて見る気でいたんですから、それだけなら受合いましょう。もうじき東京へ帰るでしょうから」
「じゃそれを明日《あした》やってくれ。あした昼いっしょに和歌山へ行って、昼のうちに返って来れば差支《さしつか》えないだろう」
自分はなぜかそれが厭《いや》だった。東京へ帰ってゆっくり折を見ての事にしたいと思ったが、片方を断った今更一方も否《いや》とは云いかねて、とうとう和歌山見物だけは引き受ける事にした。
二十六
その明くる朝は起きた時からあいにく空に斑《ふ》が見えた。しかも風さえ高く吹いて例の防波堤《ぼうはてい》に崩《くだ》ける波の音が凄《すさま》じく聞え出した。欄干《らんかん》に倚《よ》って眺めると、白い煙が濛々《もうもう》と岸一面を立て籠《こ》めた。午前は四人とも海岸に出る気がしなかった。
午《ひる》過ぎになって、空模様は少し穏かになった。雲の重なる間から日脚《ひあし》さえちょいちょい光を出した。それでも漁船が四五|艘《そう》いつもより早く楼前《ろうぜん》の掘割《ほりわり》へ漕《こ》ぎ入れて来た。
「気味が悪いね。何だか暴風雨《あらし》でもありそうじゃないか」
母はいつもと違う空を仰いで、こう云いながらまた元の座敷へ引返《ひっかえ》して来た。兄はすぐ立ってまた欄干へ出た。
「何大丈夫だよ。大した事はないにきまっている。御母さん僕が受け合いますか
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