見物して来た所は紀三井寺《きみいでら》であった。玉津島明神《たまつしまみょうじん》の前を通りへ出て、そこから電車に乗るとすぐ寺の前へ出るのだと母は兄に説明していた。
「高い石段でね。こうして見上げるだけでも眼が眩《ま》いそうなんだよ、お母さんには。これじゃとても上《のぼ》れっこないと思って、妾《わたし》ゃどうしようか知らと考えたけれども、直に手を引っ張って貰《もら》って、ようやくお参りだけは済ませたが、その代り汗で着物がぐっしょりさ……」
兄は「はあ、そうですかそうですか」と時々気のない返事をした。
二十三
その日は何事も起らずに済んだ。夕方は四人《よつたり》でトランプをした。みんなが四枚ずつのカードを持って、その一枚を順送りに次の者へ伏せ渡しにするうちに数の揃《そろ》ったのを出してしまうと、どこかにスペードの一が残る。それを握ったものが負になるという温泉場などでよく流行《はや》る至極《しごく》簡単なものであった。
母と自分はよくスペードを握っては妙な顔をしてすぐ勘《かん》づかれた。兄も時々苦笑した。一番冷淡なのは嫂《あによめ》であった。スペードを握ろうが握るまいがわれにはいっこう関係がないという風をしていた。これは風というよりもむしろ彼女《かのじょ》の性質であった。自分はそれでも兄が先刻《さっき》の会談のあと、よくこれほどに昂奮《こうふん》した神経を治められたものだと思ってひそかに感心した。
晩は寝られなかった。昨夕《ゆうべ》よりもなお寝られなかった。自分はどどんどどんと響く浪《なみ》の音の間に、兄夫婦の寝ている室《へや》に耳を澄ました。けれども彼らの室は依然として昨夜のごとく静《しずか》であった。自分は母に見咎《みとが》められるのを恐れて、その夜《よ》はあえて縁側《えんがわ》へ出なかった。
朝になって自分は母と嫂を例の東洋第一エレヴェーターへ案内した。そうして昨日《きのう》のように山の上の猿に芋《いも》をやった。今度は猿に馴染《なじみ》のある宿の女中がいっしょに随《つ》いて来たので、猿を抱いたり鳴かしたり前の日よりはだいぶ賑《にぎ》やかだった。母は茶店の床几《しょうぎ》に腰をかけて、新和歌《しんわか》の浦《うら》とかいう禿《は》げて茶色になった山を指《さ》して何だろうと聞いていた。嫂はしきりに遠眼鏡《とおめがね》はないか遠眼鏡はない
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