「妾《わたくし》はどうでも構いません」と答えた。それがおとなしいとも取れるし、また聴きようでは、冷淡とも無愛想とも取れた。それを自分は兄に対して気の毒と思い嫂に対しては損だと考えた。
二人は浴衣《ゆかた》がけで宿を出ると、すぐ昇降器へ乗った。箱は一間四方くらいのもので、中に五六人|這入《はい》ると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。兄と自分は顔さえ出す事のできない鉄の棒の間から外を見た。そうして非常に欝陶《うっとう》しい感じを起した。
「牢屋見たいだな」と兄が低い声で私語《ささや》いた。
「そうですね」と自分が答えた。
「人間もこの通りだ」
兄は時々こんな哲学者めいた事をいう癖があった。自分はただ「そうですな」と答えただけであった。けれども兄の言葉は単にその輪廓《りんかく》ぐらいしか自分には呑み込めなかった。
牢屋に似た箱の上《のぼ》りつめた頂点は、小さい石山の天辺《てっぺん》であった。そのところどころに背の低い松が噛《かじ》りつくように青味を添えて、単調を破るのが、夏の眼に嬉《うれ》しく映った。そうしてわずかな平地《ひらち》に掛茶屋があって、猿が一匹飼ってあった。兄と自分は猿に芋をやったり、調戯《からか》ったりして、物の十分もその茶屋で費やした。
「どこか二人だけで話す所はないかな」
兄はこう云って四方《あたり》を見渡した。その眼は本当に二人だけで話のできる静かな場所を見つけているらしかった。
十七
そこは高い地勢のお蔭で四方ともよく見晴らされた。ことに有名な紀三井寺《きみいでら》を蓊欝《こんもり》した木立《こだち》の中に遠く望む事ができた。その麓《ふもと》に入江らしく穏かに光る水がまた海浜《かいひん》とは思われない沢辺《さわべ》の景色を、複雑な色に描き出していた。自分は傍《そば》にいる人から浄瑠璃《じょうるり》にある下《さが》り松《まつ》というのを教えて貰った。その松はなるほど懸崖《けんがい》を伝うように逆《さか》に枝を伸《の》していた。
兄は茶店の女に、ここいらで静《しずか》な話をするに都合の好い場所はないかと尋ねていたが、茶店の女は兄の問が解らないのか、何を云っても少しも要領を得なかった。そうして地方訛《ちほうなまり》ののし[#「のし」に傍点]とかいう語尾をしきりに繰返した。
しまいに兄は「じゃその権現様《ごんげんさま》へでも行
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