「今夜は御止《およ》しよ」と母が留《と》めた。
兄は寝転《ねころ》びながら話をした。そうして口では大阪を知ってるような事を云った。けれどもよく聞いて見ると、知っているのは天王寺《てんのうじ》だの中の島だの千日前《せんにちまえ》だのという名前ばかりで地理上の知識になると、まるで夢のように散漫|極《きわ》まるものであった。
もっとも「大坂城の石垣の石は実に大きかった」とか、「天王寺の塔の上へ登って下を見たら眼が眩《くら》んだ」とか断片的の光景は実際覚えているらしかった。そのうちで一番面白く自分の耳に響いたのは彼の昔|泊《とま》ったという宿屋の夜の景色であった。
「細い通りの角で、欄干《らんかん》の所へ出ると柳が見えた。家が隙間《すきま》なく並んでいる割には閑静で、窓から眺《なが》められる長い橋も画《え》のように趣《おもむき》があった。その上を通る車の音も愉快に響いた。もっとも宿そのものは不親切で汚なくって困ったが……」
「いったいそれは大阪のどこなの」と嫂が聞いたが、兄は全く知らなかった。方角さえ分らないと答えた。これが兄の特色であった。彼は事件の断面を驚くばかり鮮《あざや》かに覚えている代りに、場所の名や年月《としつき》を全く忘れてしまう癖があった。それで彼は平気でいた。
「どこだか解らなくっちゃつまらないわね」と嫂がまた云った。兄と嫂とはこんなところでよく喰い違った。兄の機嫌《きげん》の悪くない時はそれでも済むが、少しの具合で事が面倒になる例《ためし》も稀《まれ》ではなかった。こういう消息に通じた母は、「どこでも構わないが、それだけじゃないはずだったのにね。後《あと》を御話しよ」と云った。兄は「御母さんにも直《なお》にもつまらない事ですよ」と断って、「二郎そこの二階に泊ったとき面白いと思ったのはね」と自分に話し掛けた。自分は固《もと》より兄の話を一人で聞くべき責任を引受けた。
「どうしました」
「夜になって一寝入《ひとねいり》して眼が醒《さ》めると、明かるい月が出て、その月が青い柳を照していた。それを寝ながら見ているとね、下の方で、急にやっという掛声が聞こえた。あたりは案外静まり返っているので、その掛声がことさら強く聞こえたんだろう、おれはすぐ起きて欄干《らんかん》の傍《そば》まで出て下を覗《のぞ》いた。すると向《むこう》に見える柳の下で、真裸《まっぱだか》な男
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