は、もうお帰りになりましたか」
と叮嚀《ていねい》に聞くと、掘子は顔を上げてちょいと自分を見たまま、奥を向いて、
「おい、安さん、誰か尋ねて来たよ」
と呼び出しにかかるや否や、安さんは待ってたと云わんばかりに足音をさせて出て来た。
「やあ来たな。さあ上《あが》れ」
見ると安さんは唐桟《とうざん》の着物に豆絞《まめしぼり》か何《な》にかの三尺を締めて立っている。まるで東京の馬丁《べっとう》のような服装《なり》である。これには少し驚いた。安さんも自分の様子を眺《なが》めて首を傾《かし》げて、
「なるほど東京を走ったまんまの服装《なり》だね。おれも昔はそう云う着物を着たこともあったっけ。今じゃこれだ」
と両袖《りょうそで》の裄《ゆき》を引っ張って見せる。
「何と見える。車引かな」
と云うから、自分は遠慮してにやにや笑っていた。安さんは、
「ハハハハ根性《こんじょう》はこれよりまだ堕落しているんだ。驚いちゃいけない」
自分は何と答えていいか分らないから、やはりにやにや笑って立っていた。この時分は手持無沙汰《てもちぶさた》でさえあればにやにやして済ましたもんだ。そこへ行くと安さんは自分より遥《はる》か世馴《よな》れている。この体《てい》を見て、
「さっきから来るだろうと思って待っていた。さあ上《あが》れ」
と向うから始末をつけてくれた。この人は世馴れた知識を応用して、世馴れない人を救《たす》ける方の側《がわ》だと感心した。こいつを逆にして馬鹿にされつけていたから特別に感心したんだろう。そこで安さんの云う通り長屋へ上って見た。部屋はやっぱり広いが、自分の泊った所ほどでもない。電気灯は点《つ》いている。囲炉裏《いろり》もある。ただ人数《にんず》が少い、しめて五六人しかいない。しかも、それが向うに塊《かたま》ってるから、こっちはたった二人である。そこでまた話を始めた。
「いつ帰る」
「帰らない事にしました」
安さんは馬鹿だなあと云わないばかりの顔をして呆《あき》れている。
「あなたのおっしゃった事は、よく分っています。しかし僕だって、酔興《すいきょう》にここまで来た訳じゃないんですから、帰るったって帰る所はありません」
「じゃやっぱり世の中へ顔が出せないような事でもしたのか」
と安さんは鋭い口調で聞いた。何だか向うの方がぎょっとしたらしい。
「そうでもないんですが――世の中へ顔が出したくないんです」
と答えると、自分の態度と、自分の顔つきと、自分の語勢を注意していた安さんが急に噴《ふ》き出した。
「冗談云っちゃいけねえ。そんな酔狂があるもんか。世の中へ顔が出したくないた何の事だ。贅沢《ぜいたく》じゃねえか。そんな身分に一日でも好いからなって見てえくらいだ」
「代れれば代って上げたいと思います」
と至極《しごく》真面目に云うと、安さんは、また噴き出した。
「どうも手のつけようがないね。考えて御覧な。世の中へ顔が出したくないものがさ、このシキ[#「シキ」に傍点]へ顔が出したくなれるかい」
「ちっとも出したくはありません。仕方がないから――仕方がないんです。昨夕《ゆうべ》も今日も散々|苛責《いじめ》られました」
安さんはまた笑い出した。
「太《ふて》え野郎だ。誰が苛責た。年の若いものつらまえて。よしよしおれが今に敵《かたき》を打ってやるから。その代り帰るんだぜ」
自分はこの時大変心丈夫になった。なおなお留《とど》まる気になった。あんな獰猛《どうもう》もこっちさえ強くなりゃちっとも恐ろしかないんだ、十把一束《じっぱひとからげ》に罵倒するくらいの勇気がだんだん出てくるんだと思った。そこで安さんに敵は取ってくれないでも好いから、どうか帰さずに当分置いて貰えまいかと頼んだ。安さんは、あまりの馬鹿らしさに、気の毒そうな顔をして、呆《あき》れ返っていたが、
「それじゃ、いるさ。――何も頼むの頼まないのって、そりゃ君の勝手だあね。相談するがものはないや」
「でも、あなたが承知して下さらないと、いにくいですから」
「せっかくそう云うんなら、当分にするがいい。長くいちゃいけない」
自分は謹《つつし》んで安さんの旨《むね》を領《りょう》した。実際自分もその考えでいたんだから、これはけっして御交際《おつきあい》の挨拶《あいさつ》ではなかった。それからいろいろな話をしたがシキ[#「シキ」に傍点]の中の述懐と大した変りはなかった。ただ安さんの兄《あに》さんが高等官になって長崎にいると云う事を聞いて、大いに感動した。安さんの身になっても、兄さんの身になっても、定めし苦しいだろうと思うにつけ、自分と自分の親と結びつけて考え出したら何となく悲しくなった。帰る時に安さんが出口まで送って来て、相談でもあるならいつでも来るが好いと云ってくれた。
表へ出ると、いつの間《ま》にか曇った空が晴れて、細い月が出ている。路は存外明るい、その代り大変寒い。袷《あわせ》を通して、襯衣《シャツ》を通して、蒲鉾形《かまぼこなり》の月の光が肌まで浸《し》み込んで来るようだ。両袖を胸の前へ合せて、その中へ鼻から下を突込んで肩をできるだけ聳《そび》やかして歩行《ある》き出した。身体《からだ》はいじけているが腹の中はさっきよりだいぶん豊かになった。何の当分のうちだ。馴《な》れればそう苦にする事はない。何しろ一万余人もかたまって、毎日毎日いっしょに働いて、いっしょに飯を食って、いっしょに寝ているんだから、自分だって七日も練習すれば、一人前《いちにんまえ》に堕落する事はできるに違ない。――この時自分の頭の中には、堕落の二字がこの通りに出て来た。しかしただこの場合に都合のいい文字として湧《わ》いて出たまでで、堕落の内容を明かに代表していなかったから、別に恐ろしいとも思わなかった。それで、比較的元気づいて飯場《はんば》へ帰って来た。五六間手前まで来ると、何だかわいわい云っている。外は淋《さび》しい月である。自分は家《うち》の騒ぎを聞いて、淋しい月を見上げて、しばらく立っていた。そうしたら、どうも這入《はい》るのが厭《いや》になった。月を浴びて外に立っているのも、つらくなった。安さんの所へ行って泊めてもらいたくなった。一歩引き返して見たが、あんまりだと気を取り直して、のそのそ長屋へ這入った。横手に広い間《ま》があって、上り口からは障子《しょうじ》で立て切ってある。電気灯が頭の上にあるから影は一つも差さないが、騒ぎはまさにこの中《うち》から出る。自分は下駄《げた》を脱いで、足音のしないように、障子の傍《そば》を通って、二階へ上がった。段々を登り切って、大きな部屋を見渡した時、ほっと一息ついた。部屋には誰もいない。
ただ金《きん》さんが平たく煎餅《せんべい》のようになって寝ている。それから例の帆木綿《ほもめん》にくるまって、ぶら下がってる男もいる。しかし両方とも極《きわ》めて静かだ。いてもいないと同じく、部屋は漠然《ばくぜん》としてただ広いものだ。自分は部屋の真中まで来て立ちながら考えた。床を敷いて寝たものだろうか、ただしは着のみ着のままで、ごろりと横になるか、または昨夕《ゆうべ》の通り柱へ倚《もた》れて夜を明そうか。ごろ寝は寒い、柱へ倚《よ》り懸《かか》るのは苦しい。どうかして布団《ふとん》を敷きたい。ことによれば今日は疲れ果てているから、南京虫《ナンキンむし》がいても寝られるかも知れない。それに蒲団《ふとん》の奇麗《きれい》なのを選《よ》ったらよかろう。ことさら日によって、南京虫の数が違わないとも限るまい。といろいろな理窟《りくつ》をつけて布団を出して、そうっと潜《もぐ》り込んだ。
この晩の、経験を記憶のまま、ここに書きつけては、自分がお話しにならない馬鹿だと吹聴《ふいちょう》する事になるばかりで、ほかに何の利益も興味もないからやめる。一口《ひとくち》に云うと、昨夜《ゆうべ》と同じような苦しみを、昨夜以上に受けて、寝るが早いか、すぐ飛び起きちまった。起きた後で、あれほど南京虫に螫《さ》されながら、なぜ性懲《しょうこり》もなくまた布団《ふとん》を引っ張り出して寝たもんだろうと後悔した。考えると、全くの自業自得《じごうじとく》で、しかも常識のあるものなら誰でも避《よ》けられる、また避けなければならない自業自得だから、我れながら浅ましい馬鹿だと、つくづく自分が厭《いや》になって、布団の上へ胡坐《あぐら》をかいたまま、考え込んでいると、また猛烈にちくりと螫された。臀《しり》と股《もも》と膝頭《ひざがしら》が一時に飛び上がった。自分は五位鷺《ごいさぎ》のように布団の上に立った。そうして、四囲《あたり》を見廻した。そうして泣き出した。仕方がないから、紺《こん》の兵児帯《へこおび》を解いて、四つに折って、裸の身体中所嫌わず、ぴしゃぴしゃ敲《たた》き始めた。それから着物を着た。そうして昨夜の柱の所へ行った。柱に倚《よ》りかかった。家《うち》が恋しくなった。父よりも母よりも、艶子さんよりも澄江さんよりも、家の六畳の間が恋しくなった。戸棚に這入《はい》ってる更紗《さらさ》の布団と、黒天鵞絨《くろびろうど》の半襟《はんえり》の掛かった中形の掻捲《かいまき》が恋しくなった。三十分でも好いから、あの布団を敷いて、あの掻捲を懸《か》けて、暖《あっ》たかにして楽々寝て見たい、今頃は誰があの部屋へ寝ているだろうか。それとも自分がいなくなってから後《のち》は、机を据《す》えたまんま、空《がら》ん胴《どう》にしてあるかしらん。そうすると、あの布団も掻捲も、畳んだなり戸棚にしまってあるに違ない。もったいないもんだ。父も母も澄江さんも艶子さんも南京虫に食われないで仕合せだ。今頃は熟睡しているだろう。羨《うらや》ましい。――それとも寝られないで、のつそつしているかしらん。父は寝られないと疳癪《かんしゃく》を起して、夜中に灰吹をぽんぽん敲《たた》くのが癖だ。煙草《たばこ》を呑《の》むんだと云うが、煙草は仮託《かこつけ》で、実は、腹立紛れに敲きつけるんじゃないかと思う。今頃はしきりに敲いてるかも知れない。苦々《にがにが》しい倅《せがれ》だと思って敲いてるか、どうなったろうと心配の余り眼を覚まして敲いてるか。どっちにしても気の毒だ。しかしこっちじゃそれほどにも思っていないから、先方《さき》でもそう苦にしちゃいまい。母は寝られないと手水《ちょうず》に起きる。中庭の小窓を明けて、手を洗って、桟《さん》をおろすのを忘れて、翌朝《あくるあさ》よく父に叱られている。昨夜も今夜もきっと叱られるに違ない。澄江さんはぐうぐう寝ている――どうしても寝ている。自分のいる前では、丸くなったり、四角になったりいろいろな芸をして、人を釣ってるが、いなくなれば、すぐに忘れて、平生《へいぜい》の通り御膳《ごぜん》をたべて、よく寝る女だから、是非に及ばない。あんな女は、今まで見た新聞小説にはけっして出て来ないから、始めは不思議に思ったが、ちゃんと証拠があるんだから確かである。こう云う女に恋着しなければならないのは、よッぽどの因果《いんが》だ。随分憎らしいと思うが、憎らしいと思いながらもやッぱり惚《ほ》れ込んでいるらしい。不都合な事だ。今でも、あの色の白い顔が眼前《めさき》にちらちらする。怪《け》しからない顔だ。艶子さんは起きてる。そうして泣いてるだろう。はなはだ気の毒だ。しかしこっちで惚れた覚《おぼえ》もなければ、また惚れられるような悪戯《いたずら》をした事がないんだから、いくら起きていても、泣いてくれても仕方がない。気の毒がる事は、いくらでも気の毒がるが仕方がない。構わない事にする。――そこで最後には、ほかの事はどうともするから、ただ安々と楽寝がさせて貰いたい。不断の白い飯も虫唾《むしず》が走るように食いたいが、それよりか南京虫《ナンキンむし》のいない床《とこ》へ這入《はい》りたい。三十分でも好いからぐっすり寝て見たい。その後《あと》でなら腹でも切る。……
こう考えているとまた夜が明けた。考えている途中でいつか寝たものと見えて、眼が覚《さ》めた時は、何にも考え
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