では大抵|懐《ふところ》へ入れるようだが、これは全くこの心理状態の発達した形式に過ぎないんだろうと思う。幸い安さんがえらい男で、「こりゃ失敬した」と云ってくれたんで、自分はこの形式に陥《おちい》らずに済んだのはありがたかった。
 安さんはすぐさま旅費の件を撤回して
「だが東京へは帰るだろうね」
と聞き直した。自分は、死ぬ決心が少々|鈍《にぶ》った際だから、ことによれば、旅費だけでも溜めた上、帰る事にしようと云う腹もあったんで、
「よく考えて見ましょう。いずれその中《うち》また御相談に参りますから」
と答えた。
「そうか。それじゃ、とにかく路の分る所まで送ってやろう」
と煙草入《たばこいれ》を股引《ももひき》へ差し込んで、上から筒服《つつっぽう》の胴を被《かぶ》せた。自分はカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を提《さ》げて腰を上げた。安さんが先へ立つ。坑《あな》は存外登り安かった。例の段々を四五遍通り抜けて、二度ほど四つん這《ば》いになったら、かなり天井《てんじょう》の高い、真直《まっすぐ》に立って歩けるような路へ出た。それをだらだらと廻り込んで、右の方へ登り詰めると、突然第一見張所の手前へ出た。安さんは電気灯の見える所で留った。
「じゃ、これで別れよう。あれが見張所だ。あすこの前を右へついて上がると、軌道《レール》の敷いてある所へ出る。それから先は一本道だ。おれはまだ時間が早いから、もう少し働いてからでなくっちゃあ出られない。晩には帰る。五時過ならいるから、暇があったら来るがいい。気をつけて行きたまえ。さようなら」
 安さんの影はたちまち暗い中へ這入《はい》った。振り向いて、一口《ひとくち》礼を云った時は、もうカンテラ[#「カンテラ」に傍点]が角を曲っていた。自分は一人でシキ[#「シキ」に傍点]の入口を出た。ふらふら長屋まで帰って来る。途中でいろいろ考えた。あの安さんと云う男が、順当に社会の中で伸びて行ったら、今頃は何に成っているか知らないが、どうしたって坑夫より出世しているに違ない。社会が安さんを殺したのか、安さんが社会に対して済まない事をしたのか――あんな男らしい、すっきりした人が、そうむやみに乱暴を働く訳がないから、ことによると、安さんが悪いんでなくって、社会が悪いのかも知れない。自分は若年《じゃくねん》であったから、社会とはどんなものか、その当時|明瞭《めいりょう》に分らなかったが、何しろ、安さんを追い出すような社会だから碌《ろく》なもんじゃなかろうと考えた。安さんを贔屓《ひいき》にするせいか、どうも安さんが逃げなければならない罪を犯したとは思われない。社会の方で安さんを殺したとしてしまわなければ気が済まない。その癖今云う通り社会とは何者だか要領を得ない。ただ人間だと思っていた。その人間がなぜ安さんのような好い人を殺したのかなおさら分らなかった。だから社会が悪いんだと断定はして見たが、いっこう社会が憎らしくならなかった。ただ安さんが可哀想《かわいそう》であった。できるなら自分と代ってやりたかった。自分は自分の勝手で、自分を殺しにここまで来たんである。厭《いや》になれば帰っても差支《さしつかえ》ない。安さんは人間から殺されて、仕方なしにここに生きているんである。帰ろうたって、帰る所はない。どうしても安さんの方が気の毒だ。
 安さんは堕落したと云った。高等教育を受けたものが坑夫になったんだから、なるほど堕落に違ない。けれどもその堕落がただ身分の堕落ばかりでなくって、品性の堕落も意味しているようだから痛ましい。安さんも達磨《だるま》に金を注《つ》ぎ込むのかしら、坑《あな》の中で一六勝負《いちろくしょうぶ》をやるのかしら、ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]を病人に見せて調戯《からか》うのかしら、女房を抵当に――まさか、そんな事もあるまい。昨日《きのう》着き立ての自分を見て愚弄《ぐろう》しないもののないうちで、安さんだけは暗い穴の底ながら、十分自分の人格を認めてくれた。安さんは坑夫の仕事はしているが、心《しん》までの坑夫じゃない。それでも堕落したと云った。しかもこの堕落から生涯《しょうがい》出る事ができないと云った。堕落の底に死んで活《い》きてるんだと云った。それほど堕落したと自覚していながら、生きて働いている。生きてかんかん敲《たた》いている。生きて――自分を救おうとしている。安さんが生きてる以上は自分も死んではならない。死ぬのは弱い。……
 こう決心をして、何でも構わないから、ひとまず坑夫になった上として、できるだけ急ぎ足で帰って来ると、長屋の半丁ばかり手前に初さんが石へ腰を掛けて待っている。雨は歇《や》んだ。空はまだ曇っているが、濡《ぬ》れる気遣《きづかい》はない。山から風が吹いて来る。寒くても、世界の明かるいのが、非常に嬉《うれ》しい。自分が嬉しさの余り、疲れた足を擦《ず》りながら、いそいそ近づいてくると、初さんは奇怪《けげん》な顔をして、
「やあ出て来たな。よく路《みち》が分ったな」
と云った。自分が案内につけられながら、他《ひと》を置き去りにして、何とかして何とか、てててててと云う唄《うた》をうたって、大いに焦《じら》して置いて、他が大迷《おおまご》つきに、迷《まご》ついて、穴の角《かど》へ頭をぶっつけて割って見ようとまで思ったあげく、やっとの事で安さんの御情《おなさけ》で出て来れば、「よく路が分ったな」と空とぼけている。その癖親方が怖《こわ》いものだから、途中で待ち合せて、いっしょに連れて帰ろうと云う目算《もくろみ》である。自分は石へ腰を掛けて薄笑いをしているこの案内の頭の上へ唾液《つばき》を吐きかけてやろうかと思った。しかし自分は死ぬのを断念したばかりである。当分はここに留《とど》まらなくっちゃならない身体《からだ》である。唾液を吐きかければ、喧嘩《けんか》になるだけである。喧嘩をすれば負けるだけである。負けた上にスノコ[#「スノコ」に傍点]の中へぶちこまれてはせっかく死ぬのを断念した甲斐《かい》がない。そこで、こう云う答をした。
「どうか、こうか出て来ました」
 すると初さんはなおさら不思議な顔をして、
「へえ。感心だね。一人で出て来たのか」
と聞いた。その時自分は年の割にはうまくやった。旨《うま》くやったと云うくらいだから、ただ自分の損にならないようにと云うだけで、それより以外に賞《ほ》める価値《ねうち》のある所作《しょさ》じゃないが、とにかく十九にしては、なかなか複雑な曲者《くせもの》だと思う。と云うのは、こう聞かれた時に、安さんの名前がつい咽喉《のど》の先まで出たんである。ところをとうとう云わずにしまったのが自慢なのだ。随分くだらない自慢だが訳を話せば、こんな料簡《りょうけん》であった。山中組の安さんは勢力のある坑夫に違ない。この安さんがわざわざ第一見張所の傍《そば》まで見ず知らずの自分を親切に連れて来てくれたと云う事が知れ渡れば、この案内者は面目を失うにきまっている。責任のある自分が、責任を抛《ほう》り出して、先へ坑《あな》を飛び出してしまったと分る以上は――しかもそれが悪意から出たと明瞭《めいりょう》に証拠《しょうこ》だてられる以上は、こいつは親方に対して済ましちゃいられない。となると後できっと敵《かたき》を打つだろう。無責任が露見《ばれ》るのは痛快だが――自分はけっして寛大の念に制せられたなんて耶蘇教流《ヤソきょうりゅう》の嘘《うそ》はつかない。――そこまでは痛快だが、敵打《かたきうち》は大《おおい》に迷惑する。実のところ自分はこの迷惑の念に制せられた。それで、
「ええ、いろいろ路を聞いて出て来ました」
とおとなしい返事をして置いた。
 初さんは半分失望したような、半分安心したような顔つきをしたが、やがて石から腰を上げて、
「親方の所へ行こう」
とまた歩き出した。自分は黙って尾《つ》いて行った。昨日《きのう》親方に逢《あ》ったのは飯場《はんば》だが、親方の住んでる所は別にある。長屋の横を半丁ほど上《のぼ》ると、石垣で二方の角《かど》を取って平《なら》した地面の上に二階建がある。家はさほど見苦しくもないが、家のほかには木も庭もない。相変らず二階の窓から悪魔が首を出している。入口まで来て、初さんが外から声を掛けると、窓をがらりと開けて、飯場頭《はんばがしら》が顔を出した。米利安《めりやす》の襯衣《シャツ》の上へどてら[#「どてら」に傍点]を着たままである。
「帰《けえ》ったか。御苦労だった。まああっちへ行って休みねえ」
と云うが早いか初さんは消えてなくなった。後《あと》は二人になる。親方は窓の中から、自分は表に立ったまま、談話《はなし》をした。
「どうです」
「大概見て来ました」
「どこまで降りました」
「八番坑まで降りました」
「八番坑まで。そりゃ大変だ。随分ひどかったでしょう。それで……」
と心持首を前の方へ出した。
「それで――やっぱりいるつもりです」
「やっぱり」
と繰り返したなり、飯場頭はじっと自分の顔を見ていた。自分も黙って立っていた。二階からは依然として首が出ている。おまけに二つばかり殖《ふ》えた。この顔を見ると、厭《いや》で厭でたまらない。飯場へ帰ってから、この顔に取り巻かれる事を思い出すと、ぞっとする。それでもいる気である。どんな辛抱をしてもいる気である。しかし「やっぱりいるつもりです」と断然答えて置いて、二階の顔を不意に見上げた時には、さすがに情なかった。こんな奴といっしょに置いてくれと、手を合せて拝まなければ始末がつかないようになり下がったのかと思うと、身体《からだ》も魂も塩を懸《か》けた海鼠《なまこ》のようにたわいなくなった。その時飯場頭はようやく口を利《き》いた。奇麗《きれい》さっぱりと利いた。
「じゃ置く事にしよう。だが規則だから、医者に一遍見て貰ってね。健康の証明書を持って来なくっちゃいけない。――今日と――今日は、もう遅いから、明日《あした》の朝、行って見て貰ったらよかろう。――診察場かい。診察場はこれから南の方だ。上がって来る時、見えたろう。あの青いペンキ塗りの家《うち》だ。じゃ今日は疲れたろうから、飯場へ帰って緩《ゆっ》くり御休み」
と云って窓を閉《た》てた。窓を閉てる前に自分はちょっと頭を下げて、飯場へ引返した。緩《ゆっ》くり御休と云ってくれた飯場頭《はんばがしら》の親切はありがたいが、緩くり寝られるくらいなら、こんなに苦しみはしない。起きていれば獰猛組《どうもうぐみ》、寝れば南京虫《ナンキンむし》に責められるばかりだ。たまたま飯の蓋《ふた》を取れば咽喉《のど》へ通らない壁土が出て来る。――しかしいる。いるときめた以上は、どうしてもいて見せる。少くとも安さんが生きてるうちはいる。シキ[#「シキ」に傍点]の人間がみんな南京虫になっても、安さんさえ生きて働いてるうちは、自分も生きて働く考えである。こう考えながら半丁ほどの路を降りて飯場《はんば》へ帰って、二階へ上がった。上がると案のじょう大勢|囲炉裏《いろり》の傍《そば》に待ち構えている。自分はくさくさしたが、できるだけ何喰わぬ顔をして、邪魔にならないような所へ坐った。すると始まった。皮肉だか、冷評だか、罵詈《ばり》だか、滑稽《こっけい》だか、のべつに始まった。
 一々覚えている。生涯《しょうがい》忘れられないほどに、自分の柔らかい頭を刺激したから、よく覚えている。しかし一々繰返す必要はない。まず大体|昨日《きのう》と同じ事と思えば好い。自分は急に安さんに逢《あ》いたくなった。例の夕食《ゆうめし》を我慢して二杯食って、みんなの眼につかないようにそっと飯場を抜け出した。
 山中組はジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]の通った石垣の間を抜けて、だらだら坂の降り際《ぎわ》を、右へ上《のぼ》ると斜《はす》に頭の上に被《かぶ》さっている大きな槐《えんじゅ》の奥にある。夕暮の門口《かどぐち》を覗《のぞ》いたら、一人の掘子《ほりこ》がカンテラの灯《ひ》で筒服《つつっぽう》の掃除をしていた。中は存外静かである。
「安さん
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