、胡坐の膝《ひざ》へ片手を逆《ぎゃく》に突いて、左の肩を少し聳《そびやか》して、右の指で煙管を握って、薄い唇《くちびる》の間から奇麗《きれい》な歯を時々あらわして、――こんな事を云った。句の順序や、単語の使い方は、たしかな記憶をそのまま写したものである。ただ語声だけはどうしようもない。――
「亀の甲より年の功と云うことがあるだろう。こんな賤《いや》しい商売はしているが、まあ年長者の云う事だから、参考に聞くがいい。青年は情《じょう》の時代だ。おれも覚《おぼえ》がある。情の時代には失敗するもんだ。君もそうだろう。己《おれ》もそうだ。誰でもそうにきまってる。だから、察している。君の事情と己《おれ》の事情とは、どのくらい違うか知らないが、何しろ察している。咎《とが》めやしない。同情する。深い事故《わけ》もあるだろう。聞いて相談になれる身体《からだ》なら聞きもするが、シキ[#「シキ」に傍点]から出られない人間じゃ聞いたって、仕方なし、君も話してくれない方がいい。おれも……」
と云い掛けた時、自分はこの男の眼つきが多少異様にかがやいていたと云う事に気がついた。何だか大変感じている。これが当人の云うごとくシキ[#「シキ」に傍点]を出られないためか、または今云い掛けたおれも[#「おれも」に傍点]の後へ出て来る話のためか、ちょっと分りにくいが、何しろ妙な眼だった。しかもこの眼が鋭く自分をも見詰めている。そうしてその鋭いうちに、懐旧《かいきゅう》と云うのか、沈吟《ちんぎん》と云うのか、何だか、人を引きつけるなつかしみがあった。この黒い坑《あな》の中で、人気《ひとけ》はこの坑夫だけで、この坑夫は今や眼だけである。自分の精神の全部はたちまちこの眼球《めだま》に吸いつけられた。そうして彼の云う事を、とっくり聞いた。彼はおれも[#「おれも」に傍点]を二遍繰り返した。
「おれも、元は学校へ行った。中等以上の教育を受けた事もある。ところが二十三の時に、ある女と親しくなって――詳しい話はしないが、それが基《もと》で容易ならん罪を犯した。罪を犯して気がついて見ると、もう社会に容《い》れられない身体《からだ》になっていた。もとより酔興《すいきょう》でした事じゃない、やむを得ない事情から、やむを得ない罪を犯したんだが、社会は冷刻なものだ。内部の罪はいくらでも許すが、表面の罪はけっして見逃《みのが》さない。おれは正しい人間だ、曲った事が嫌《きらい》だから、つまりは罪を犯すようにもなったんだが、さて犯した以上は、どうする事もできない。学問も棄《す》てなければならない。功名も抛《なげう》たなければならない。万事が駄目だ。口惜《くや》しいけれども仕方がない。その上制裁の手に捕《とら》えられなければならない。(故意か偶然か、彼はとくに制裁の手と云う言語を使用した。)しかし自分が悪い覚《おぼえ》がないのに、むやみに罪を着るなあ、どうしても己《おれ》の性質としてできない。そこで突っ走った。逃げられるだけ逃げて、ここまで来て、とうとうシキ[#「シキ」に傍点]の中へ潜《もぐ》り込んだ。それから六年というもの、ついに日光《ひのめ》を見た事がない。毎日毎日坑の中でかんかん敲《たた》いているばかりだ。丸六年敲いた。来年になればもうシキ[#「シキ」に傍点]を出たって構わない、七年目だからな。しかし出ない、また出られない。制裁の手には捕《つら》まらないが、出ない。こうなりゃ出たって仕方がない。娑婆《しゃば》へ帰れたって、娑婆でした所業は消えやしない。昔は今でも腹ん中にある。なあ君昔は今でも腹ん中にあるだろう。君はどうだ……」
と途中で、いきなり自分に質問を掛けた。
自分は藪《やぶ》から棒《ぼう》の質問に、用意の返事を持ち合せなかったから、はっと思った。自分の腹ん中にあるのは、昔《むかし》どころではない。一二年前から一昨日《おととい》まで持ち越した現在に等しい過去である。自分はいっその事自分の心事をこの男の前に打ち明けてしまおうかと思った。すると相手は、さも打ち明けさせまいと自分を遮《さえぎ》るごとくに、話の続きを始めた。
「六年ここに住んでいるうちに人間の汚ないところは大抵|見悉《みつく》した。でも出る気にならない。いくら腹が立っても、いくら嘔吐《おうと》を催《もよお》しそうでも、出る気にならない。しかし社会には、――日の当る社会には――ここよりまだ苦しい所がある。それを思うと、辛抱も出来る。ただ暗くって狭《せば》い所だと思えばそれで済む。身体も今じゃ銅臭《あかがねくさ》くなって、一日もカンテラ[#「カンテラ」に傍点]の油を嗅《か》がなくっちゃいられなくなった。しかし――しかしそりゃおれの事だ。君の事じゃない。君がそうなっちゃ大変だ。生きてる人間が銅臭くなっちゃ大変だ。いや、どんな決心でどんな目的を持って来ても駄目だ。決心も目的もたった二三日《にさんち》で突ッつき殺されてしまう。それが気の毒だ。いかにも可哀想《かわいそう》だ。理想も何にもない鑿《のみ》と槌《つち》よりほかに使う術《すべ》を知らない野郎なら、それで結構だが。しかし君のような――君は学校へ行ったろう。――どこへ行った。――ええ? まあどこでもいい。それに若いよ。シキ[#「シキ」に傍点]へ抛《ほう》り込まれるには若過ぎるよ。ここは人間の屑《くず》が抛り込まれる所だ。全く人間の墓所《はかしょ》だ。生きて葬《ほうぶ》られる所だ。一度|踏《ふ》ん込《ご》んだが最後、どんな立派な人間でも、出られっこのない陥穽《おとしあな》だ。そんな事とは知らずに、大方ポン引《びき》の言いなりしだいになって、引張られて来たんだろう。それを君のために悲しむんだ。人一人を堕落させるのは大事件だ。殺しちまう方がまだ罪が浅い。堕落した奴はそれだけ害をする。他人に迷惑を掛ける。――実はおれもその一人《いちにん》だ。が、こうなっちゃ堕落しているよりほかに道はない。いくら泣いたって、悔《くや》んだって堕落しているよりほかに道はない。だから君は今のうち早く帰るがいい。君が堕落すれば、君のためにならないばかりじゃない。――君は親があるか……」
自分はただ一言《ひとこと》ある[#「ある」に傍点]と答えた。
「あればなおさらだ。それから君は日本人だろう……」
自分は黙っていた。
「日本人なら、日本のためになるような職業についたらよかろう。学問のあるものが坑夫になるのは日本の損だ。だから早く帰るがよかろう。東京なら東京へ帰るさ。そうして正当な――君に適当な――日本の損にならないような事をやるさ。何と云ってもここはいけない。旅費がなければ、おれが出してやる。だから帰れ。分ったろう。おれは山中組にいる。山中組へ来て安《やす》さんと聞きゃあすぐ分る。尋ねて来るが好い。旅費はどうでも都合してやる」
安さんの言葉はこれで終った。坑夫の数は一万人と聞いていた。その一万人はことごとく理非人情《りひにんじょう》を解しない畜類の発達した化物とのみ思い詰めたこの時、この人に逢《あ》ったのは全くの小説である。夏の土用に雪が降ったよりも、坑《あな》の中で安さんに説諭された方が、よほどの奇蹟《きせき》のように思われた。大晦日《おおみそか》を越すとお正月が来るくらいは承知していたが、地獄で仏と云う諺《ことわざ》も記憶していたが、窮《きわ》まれば通ずという熟語も習った事があるが、困った時は誰か来て助けてくれそうなものだくらいに思って、芝居気を起しては困っていた事もたびたびあるが、――この時はまるで違う。真から一万人を畜生と思い込んで、その畜生がまたことごとく自分の敵だと考え詰めた最強度の断案を、忘るべからざる痛忿《つうふん》の焔《ほのお》で、胸に焼きつけた折柄だから、なおさらこの安さんに驚かされた。同時に安さんの訓戒が、自分の初志を一度に翻《ひるが》えし得るほどの力をもって、自分の耳に応《こた》えた。
しばらくは二人して黙っていた。安さんは一応云うだけの事を云ってしまったんだから、口を利《き》かないはずであるが、自分は先方に対して、何とか返事をする義務がある。義務をかいては安さんに済まない。心底《しんそこ》から感謝の意を表《ひょう》した上で、自分の考えも少し聞いてもらいたいのは山々であったが、何分にも鼻の奥が詰って不自由である。しかも強《し》いて言葉を出そうとすると、口へ出ないで鼻へ抜けそうになる。それを我慢すると、唇の両端《りょうはじ》がむずむずして、小鼻がぴくついて来る。やがて鼻と口を塞《せ》かれた感動が、出端《では》を失って、眼の中にたまって来た。睫《まつげ》が重くなる。瞼《まぶた》が熱くなる。大《おおい》に困った。安さんも妙な顔をしている。二人ともばつ[#「ばつ」に傍点]が悪くなって、差し向いで胡坐《あぐら》をかいたまま、黙っていた。その時次の作事場《さくじば》で鉱《あらがね》を敲《たた》く音がかあんかあん鳴った。今考えると、自分と安さんが黙然《もくねん》と顔を見合せていた場所は、地面の下何百尺くらいな深さだか、それを正確に知って置きたかった。都会でも、こんな奇遇は少い。銅山《やま》の中では有ろうはずがない。日の照らない坑《あな》の底で、世から、人から、歴史から、太陽からも、忘れられた二人が、ありがたい誨《おしえ》を垂れて、尊《たっ》とい涙を流した舞台があろうとは、胡坐をかいて、黙然と互に顔を見守っていた本人よりほかに知るものはあるまい。
安さんはまた煙草《たばこ》を呑《の》み出した。ぷかりぷかりと煙《けむ》が出た。その煙が濃く出ては暗がりに消え、濃く出ては暗がりに消える間に、自分はようやく声が自由になった。
「ありがたいです。なるほどあなたのおっしゃる通り人間のいる所じゃないでしょう。僕もあなたに逢《あ》うまでは、今日《きょう》限り銅山《やま》を出ようかと思ってたんです。……」
さすが山を出て死ぬつもりだったとは云いかねたから、ここでちょっと句を切ったら、
「そりゃなおさらだ。さっそく帰るがいい」
と、安さんが勢いをつけてくれた。自分はやっぱり黙っていた。すると、
「だから旅費はおれが拵《こしら》えてやるから」
と云う。自分はさっきから旅費旅費と聞かされるのを、ただ善意に解釈していたが、さればと云って毫《ごう》も貰う気は起らなかった。昨日《きのう》飯場頭《はんばがしら》の合力《ごうりょく》を断った時の料簡《りょうけん》と同じかと云うと、それとも違う。昨日は是非貰いたかった、地平《じびた》へ手を突いてまで貰いたかった。しかし草鞋銭《わらじせん》を貰うよりも、坑夫になる方が得だと勘定したから、手を出して頂きたいところを、無理に断ったんである。安さんの旅費は始めから貰いたくない。好意を空《むな》しくすると云う点から見れば、貰わなければ済まないし、坑夫をやめるとすれば貰う方が便利だが、それにもかかわらず貰いたくなかった。これは今から考えると、全く向うの人格に対して、貰っては恥ずべき事だ、こちらの人格が下がるという念から萌《きざ》したものらしい。先方がいかにも立派だから、こっちも出来るだけ立派にしたい、立派にしなければ、自分の体面を損《そこな》う虞《おそれ》がある。向うの好意を享《う》けて、相当の満足を先方に与えるのは、こちらも悦《よろこ》ばしいが、受けるべき理由がないのに、濫《みだ》りに自己の利得のみを標準《めやす》に置くのは、乞食と同程度の人間である。自分はこの尊敬すべき安さんの前で、自分は乞食である、乞食以上の人物でないと云う事実上の証明を与えるに忍びなかった。年が若いと馬鹿な代りに存外|奇麗《きれい》なものである。自分は
「旅費は頂きません」
と断った。
この時安さんは、煙草を二三ぶく吸《ふか》して、煙管《きせる》を筒《つつ》へ入れかけていたが、自分の顔をひょいと見て
「こりゃ失敬した」
と云ったんで、自分は非常に気の毒になった。もしやるから貰って置けとでも強いられたならきっと受けたに違ない。その後《ご》気をつけて、人が金を貰うところを見ていると、始めは一応辞退して、後
前へ
次へ
全34ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング