出すように足を伸ばした。すると腿《もも》の所まで摺《ず》り落ちて、草鞋《わらじ》の裏がようやく堅いものに乗った。自分は念のためこの堅いものをぴちゃぴちゃ足の裏で敲《たた》いて見た。大丈夫なら手を離してこの堅いものの上へ立とうと云う料簡《りょうけん》であった。
「何で足ばかり、ばたばたやってるんだ。大丈夫だから、うんと踏ん張って立ちねえな。意久地《いくじ》のねえ」
と、下から初さんの声がする。自分の胴から上は叱られると同時に、穴を抜けて真直に立った。
「まるで傘《からかさ》の化物《ばけもの》のようだよ」
と初さんが、自分の顔を見て云った。自分は傘の化物とは何の意味だか分らなかったから、別に笑う気にもならなかった。ただ
「そうですか」
と真面目に答えた。妙な事にこの返事が面白かったと見えて、初さんは、また大きな声を出して笑った。そうして、この時から態度が変って、前よりは幾分《いくぶん》か親切になった。偶然の事がどんな拍子《ひょうし》で他《ひと》の気に入らないとも限らない。かえって、気に入ってやろうと思って仕出《しで》かす芸術は大抵駄目なようだ。天巧《てんこう》を奪うような御世辞使はいまだかつて見た事がない。自分も我が身が可愛さに、その後《ご》いろいろ人の御機嫌を取って見たが、どうも旨《うま》い結果が出て来ない。相手がいくら馬鹿でも、いつか露見するから怖《こわ》いもんだ。用意をして置いた挨拶《あいさつ》で、この傘の化物に対する返事くらいに成功した場合はほとんどない。骨を折って失敗するのは愚《ぐ》だと悟ったから、近頃では宿命論者の立脚地から人と交際をしている。ただ困るのは演舌《えんぜつ》と文章である。あいつは骨を折って準備をしないと失敗する。その代りいくら骨を折ってもやっぱり失敗する。つまりは同じ事なんだが、骨を折った失敗は、人の気に入らないでも、自分の弱点《ぼろ》が出ないから、まあ準備をしてからやる事にしている。いつかは初さんの気に入ったような演説をしたり、文章を書いて見たいが、――どうも馬鹿にされそうでいけないから、いまだにやらずにいる。――それはここには余計な事だから、このくらいでやめてまた初さんの話を続けて行く。
その時初さんは、笑いながら、下から、自分に向って、
「おい、そう真面目くさらねえで、早く下りて来ねえな。日は短《みじけ》えやな」
と云った。坑《あな》の中でカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を点《つ》けた、初さんはたしかに日は短えやなと云った。
自分が土の段を一二間下りて、初さんの立ってる所まで行くと、初さんは、右へ曲った。また段々が四五間続いている。それを降り切ると、今度は初さんが左へ折れる。そうしてまた段々がある。右へ折れたり左へ折れたり稲妻《いなずま》のように歩いて、段々を――さあ何町《なんちょう》降りたか分らない。始めての道ではあるし、ことに暗い坑《あな》の中の事であるから自分には非常に長く思われた。ようやく段々を降り切って、だいぶ浮世とは縁が遠くなったと思ったら急に五六畳の部屋に出た。部屋と云っても坑を切り広げたもので、上と下がすぼまって、腹の所が膨《ふく》らんでいるから、まるで酒甕《さかがめ》の中へでも落込んだ有様である。あとから分った話だが、これは作事場《さくじば》と云うんで、技師の鑑定で、ここには鉱脈があるとなると、そこを掘り拡《ひろ》げて作事場にするんである。だから通り路よりは自然広い訳で、この作事場を坑夫が三人一組で、請負《うけおい》仕事に引受ける。二週間と見積ったのが、四日で済む事もあり、高が五日くらいと踏んだ作事に半月以上|食《くら》い込む事もある。こう云う訳で、シキ[#「シキ」に傍点]のなかに路ができて、路のはたに銅脈さえ見つかれば、御構《おかまい》なくそこだけを掘り抜いて行くんだから、電車の通るシキ[#「シキ」に傍点]の入口こそ、平らでもあり、また一条《ひとすじ》でもあるが、下へ折れて第一見張所のあたりからは、右へも左へも条路《えだみち》ができて、方々に作事場が建つ。その作事をしまうと、また銅脈を見つけては掘り抜いて行くんだから、シキ[#「シキ」に傍点]の中は細い路だらけで、また暗い坑だらけである。ちょうど蟻《あり》が地面を縦横に抜いて歩くようなものだろう。または書蠹《のむし》が本を食《くら》うと見立てても差《さ》し支《つかえ》ない。つまり人間が土の中で、銅《あかがね》を食って、食い尽すと、また銅を探し出して食いにゆくんでむやみに路がたくさんできてしまったんである。だから、いくらシキ[#「シキ」に傍点]の中を通っても、ただ通るだけで作事場へ出なければ坑夫には逢《あ》わない。かあんかあんという音はするが、音だけでは極《きわ》めて淋《さみ》しいものである。自分は初さんに連れられて、シキ[#「シキ」に傍点]へ這入《はい》ったが、ただシキ[#「シキ」に傍点]の様子を見るのが第一の目的であったためか、廻り道をして作事場へは寄らなかったと見えて、坑夫の仕事をしているところは、この段々の下へ来て、初めて見た。――稲妻形《いなずまがた》に段々を下りるときは、むやみに下りるばかりで、いくら下りても尽きないのみか、人っ子一人に逢《あ》わないものだから、はなはだ心細かったが、はじめて作事場へ出て、人間に逢ったら、大いに嬉しかった。
見ると丸太《まるた》の上に腰をかけている。数は三人だった。丸太は四《よ》つや丸太《まるた》で、軌道《レール》の枕木くらいなものだから、随分の重さである。どうして、ここまで運んで来たかとうてい想像がつかない。これは天井の陥落を防ぐため、少し広い所になると突っかい棒に張るために、シチュウ[#「シチュウ」に傍点]が必要な作事場へ置いて行くんだそうだ。その上に二人《ふたあり》腰を掛けて、残る一人が屈《しゃが》んで丸太へ向いている。そうして三人の間には小さな木の壺《つぼ》がある。伏せてある。一人がこの壺を上から抑《おさ》えている。三人が妙な叫び声を出した。抑えた壺をたちまち挙《あ》げた。下から賽《さい》が出た。――ところへ自分と初さんが這入った。
三人はひとしく眼を上げて、自分と初さんを見た。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]が土の壁に突き刺してある。暗い灯《ひ》が、ぎろりと光る三人の眼球《めだま》を照らした。光ったものは実際眼球だけである。坑は固《もと》より暗い。明かるくなくっちゃならない灯も暗い。どす黒く燃えて煙《けぶり》を吹いている所は、濁った液体が動いてるように見えた。濁った先が黒くなって、煙と変化するや否や、この煙が暗いものの中に吸い込まれてしまう。だから坑の中がぼうとしている。そうして動いている。
カンテラ[#「カンテラ」に傍点]は三人の頭の上に刺さっていた。だから三人のうちで比較的|判然《はっきり》見えたのは、頭だけである。ところが三人共頭が黒いので、つまりは、見えないのと同じ事である。しかも三つとも集《かたま》っていたから、なおさら変であったが、自分が這入《はい》るや否や、三つの頭はたちまち離れた。その間から、壺《つぼ》が見えたんである。壺の下から賽《さい》が見えたんである。壺と、賽と、三人の異《い》な叫び声を聞いた自分は、次に三人の顔を見たんである。よくはわからない顔であった。一人の男は頬骨《ほおぼね》の一点と、小鼻の片傍《かたわき》だけが、灯《ひ》に映った。次の男は額と眉《まゆ》の半分に光が落ちた。残る一人は総体にぼんやりしている。ただ自分の持っていた、カンテラ[#「カンテラ」に傍点]を四五尺手前から真向《まっこう》に浴びただけである。――三人はこの姿勢で、ぎろりと眼を据《す》えた。自分の方に。
ようやく人間に逢《あ》って、やれ嬉《うれ》しやと思った自分は、この三|対《つい》の眼球《めだま》を見るや否や、思わずぴたりと立ち留った。
「手前《てめえ》は……」
と云い掛けて、一人が言葉を切った。残る二人はまだ口を開《ひら》かない。自分も立ち留まったなり、答えなかった。――答えられなかった。すると
「新《しん》めえだ」
と、初さんが、威勢のいい返事をしてくれた。本当のところを白状すると、三人の眼球が光って、「手前は……」と聞かれた時は、初さんの傍《そば》にいる事も忘れて、ただおやっと思った。立すくむと云うのはこれだろう。立ちすくんで、硬《かた》くこわ張り掛けたところへ「新めえだ」と云う声がした。この声が自分の左の耳の、つい後《うしろ》から出て、向うへ通り抜けた時、なるほど初さんがついてたなと思い出した。それがため、こわ張りかけた手足も、中途でもとへ引き返した。自分は一歩|傍《わき》へ退《の》いた。初さんに前へ出てもらうつもりであった。初さんは注文通り出た。
「相変らずやってるな」
とカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を提《さ》げたまま、上から三人の真中に転がってる、壺と賽を眺《なが》めた。
「どうだ仲間入は」
「まあよそう。今日は案内だから」
と初さんは取り合わなかった。やがて、四《よ》つや丸太《まるた》の上へうんとこしょと腰をおろして、
「少し休んで行くかな」
と自分の方を見た。立ちすくむまで恐ろしかった、自分は急に嬉しくなって元気が出て来た。初さんの側《そば》へ腰をおろす。アテシコ[#「アテシコ」に傍点]の利目《ききめ》は、ここで始めて分った。旨《うま》い具合に尻が乗って、柔らかに局部へ応《こた》える。かつ冷えないで、結構だ。実はさっきから、眼が少し眩《く》らんで――眩らんだか、眩らまないんだか、坑《あな》の中ではよく分らないが、何しろ好い気持ではなかったが、こう尻を掛けて落ちつくと、大きに楽《らく》になる。四人《よつたり》がいろいろな話をしている。
「広本《ひろもと》へは新らしい玉《たま》が来たが知ってるか」
「うん、知ってる」
「まだ、買わねえか」
「買わねえ、お前《めえ》は」
「おれか。おれは――ハハハハ」
と笑った。これは這入《はい》って来た時、顔中ぼんやり見えた男である。今でもぼんやり見える。その証拠には、笑っても笑わなくっても、顔の輪廓《りんかく》がほとんど同じである。
「随分手廻しがいいな」
と初さんもいささか笑っている。
「シキ[#「シキ」に傍点]へ這入《へえ》ると、いつ死ぬか分らねえからな。だれだって、そうだろう」
と云う答があった。この時、
「御互に死なねえうちの事だなあ」
と一人《だれか》が云った。その語調には妙に咏嘆《えいたん》の意が寓《ぐう》してあった。自分はあまり突然のように感じた。
そうしているうちに、一間《いっけん》置いて隣りの男が突然自分に話しかけた。
「御前《おめえ》はどこから来た」
「東京です」
「ここへ来て儲《もう》けようたって駄目だぜ」
と他《ほか》のが、すぐ教えてくれた。自分は長蔵さんに逢うや否や儲かる儲かるを何遍となく聞かせられて驚いたが、飯場《はんば》へ着くが早いか、今度は反対に、儲からない儲からないで立てつづけに責められるんで、大いに辟易《へきえき》した。しかし地《じ》の底ではよもやそんな話も出まいと思ってここまで降りて来たが、人に逢えばまた儲からないを繰り返された。あんまり馬鹿馬鹿しいんで何とか答弁をしようかとも考えたが、滅多《めった》な事を云えば擲《は》りつけられるだけだから、まあやめにして置いた。さればと云って返事をしなければまたやりつけられる。そこで、こう云った。
「なぜ儲からないんです」
「この銅山《やま》には神様がいる。いくら金を蓄《た》めて出ようとしたって駄目だ。金は必ず戻ってくる」
「何の神様ですか」
と聞いて見たら、
「達磨《だるま》だ」
と云って、四人《よつたり》ながら面白そうに笑った。自分は黙っていた。すると四人は自分を措《お》いてしきりに達磨の話を始めた。約十分余りも続いたろう。その間自分はほかの事を考えていた。いろいろ考えたうちに一番感じたのは、自分がこんな泥だらけの服を着て、真暗な坑《あな》のなかに屈《しゃが》んでるところを、艶子《つやこ》さんと澄江《すみえ》さんに見せたら
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