曲った。だらだら坂の下りになる。もう入口は見えない。振返っても真暗だ。小さい月のような浮世の窓は遠慮なくぴしゃりと閉って、初さんと自分はだんだん下の方へ降りて行く。降りながら手を延ばして壁へ触《さわ》って見ると、雨が降ったように濡《ぬ》れている。
「どうだ、尾《つ》いて来るか」
と、初さんが聞いた。
「ええ」
とおとなしく答えたら、
「もう少しで地獄の三丁目へ来る」
と云ったなり、また二人とも無言になった。この時行く手の方《かた》に一点の灯《あかり》が見えた。暗闇《くらやみ》の中の黒猫の片眼のように光ってる。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の灯《ひ》なら散らつくはずだが、ちっとも動かない。距離もよく分らない。方角も真直《まっすぐ》じゃないが、とにかく見える。もし坑《あな》の中が一本道だとすれば、この灯を目懸《めが》けて、初さんも自分も進んで行くに違ない。自分は何にも聞かなかったが、大方これが地獄の三丁目なんだろうと思って、這入って行った。すると、だらだら坂がようやく尽きた。路は平らに向うへ廻り込む。その突き当りに例の灯《ひ》が点《つ》いている。さっきは鼻の下に見えたが、今では眼と擦々《すれすれ》の所まで来た。距離も間近くなった。
「いよいよ三丁目へ着いた」
と、初さんが云う。着いて見ると、坑《あな》が四五畳ほどの大《おおき》さに広がって、そこに交番くらいな小屋がある。そうしてその中に電気灯が点いている。洋服を着た役人が二人ほど、椅子の対《むか》い合せに洋卓《テーブル》を隔てて腰を掛けていた。表《おもて》には第一見張所とあった。これは坑夫の出入《でいり》だの労働の時間だのを検査する所だと後から聞いて、始めて分ったんだが、その当時には何のための設備だか知らなかったもんだから、六七人の坑夫が、どす黒い顔を揃《そろ》えて無言のまま、見張所の前に立っていたのを不審に思った。これは時間を待ち合わして交替するためである。自分は腰に鑿《のみ》と槌《つち》を差してカンテラ[#「カンテラ」に傍点]さえ提《さ》げてはいるが、坑夫志願というんで、シキ[#「シキ」に傍点]の様子を見に這入っただけだから、まだ見習にさえ採用されていないと云う訳で、待ち合わす必要もないものと見えて、すぐこの溜《たまり》を通り越した。その時初さんが見張所の硝子窓《ガラスまど》へ首を突っ込んで、ちょいと役人に断《ことわ》ったが、役人は別に自分の方を見向もしなかった。その代り立っていた坑夫はみんな見た。しかし役人の前を憚《はばか》ってだろう、全く一言《ひとこと》も口を利《き》いたものはなかった。
 溜を出るや否や坑《あな》の様子が突然変った。今までは立ってあるいても、背延《せいの》びをしても届きそうにもしなかった天井が急に落ちて来て、真直《まっすぐ》に歩くと時々頭へ触《さわ》るような気持がする。これがものの二寸も低かろうものなら、岩へぶつかって眉間《みけん》から血が出るに違ないと思うと、松原をあるくように、ありったけの背で、野風雑《のふうぞう》にゃやって行けない。おっかないから、なるべく首を肩の中へ縮め込んで、初さんに食っついて行った。もっともカンテラ[#「カンテラ」に傍点]はさっき点《つ》けた。
 すると三尺ばかり前にいる初さんが急に四《よつ》ん這《ば》いになった。おや、滑《すべ》って転んだ。と思って、後《うしろ》から突っ掛かりそうなところを、ぐっと足を踏ん張った。このくらいにして喰い留めないと、坂だから、前へのめる恐《おそれ》がある。心持腰から上を反《そ》らすようにして、初さんの起きるのを待ち合わしていると、初さんはなかなか起きない。やっぱり這《は》っている。
「どうか、しましたか」
と後から聞いた。初さんは返事もしない。――はてな――怪我でもしやしないかしら――もう一遍聞いて見ようか――すると初さんはのこのこ歩き出した。
「何ともなかったですか」
「這うんだ」
「え?」
「這うのだてえ事よ」
と初さんの声はだんだん遠くなってしまう。その声で自分は不審を打った。いくら向うむきでも、普通なら明かに聞きとられべき距離から出るのに、急に潜《もぐ》ってしまう。声が細いんじゃない。当り前の初さんの声が袋のなかに閉じ込められたように曖昧《あいまい》になる。こりゃただ事じゃないと気がついたから、透《すか》して見るとようやく分った。今までは尋常に歩けた坑が、ここでたちまち狭《せま》くなって、這わなくっちゃ抜けられなくなっている。その狭い入口から、初さんの足が二本出ている。初さんは今胴を入れたばかりである。やがて出ていた足が一本這入った。見ているうちにまた一本這入った。これで自分も四つん這いにならなくっちゃ仕方がないと諦《あきら》めをつけた。「這うんだ」と初さんの教えたのもけっして無理じゃないんだから、教えられた通り這った。ところが右にはカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を提《さ》げている。左の手の平《ひら》だけを惜気《おしげ》もなく氷のような泥だか岩だかへな土だか分らない上へぐしゃりと突いた時は、寒さが二の腕を伝わって肩口から心臓へ飛び込んだような気持がした。それでカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を下へ着けまいとすると、右の手が顔とすれすれになって、はなはだ不便である。どうしたもんだろうと、この姿勢のままじっとしていた。そうして、右の手で宙に釣っているカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を見た。ところへぽたりと天井《てんじょう》からしずくが垂れた。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の灯《ひ》がじいと鳴った。油煙が顎《あご》から頬へかかる。眼へも這入《はい》った。それでもこの灯を見詰めていた。すると遠くの方でかあん、かあん、と云う音がする。坑夫が作業をしているに違ないが、どのくらい距離があるんだか、どの見当《けんとう》にあたるんだか、いっこう分らない。東西南北のある浮世の音じゃない。自分はこの姿勢でともかくも二三歩歩き出した。不便は無論不便だが、歩けない事はない。ただ時々しずくが落ちてカンテラ[#「カンテラ」に傍点]のじいと鳴るのが気にかかる。初さんは先へ行ってしまった。頼《たより》はカンテラ[#「カンテラ」に傍点]一つである。そのカンテラ[#「カンテラ」に傍点]がじいと鳴って水のために消えそうになる。かと思うとまた明かるくなる。まあよかったと安心する時分に、またぽたりと落ちて来る。じいと鳴る。消えそうになる。非常に心細い。実は今までも、しずくは始終《しじゅう》垂れていたんだが、灯《ひ》が腰から下にあるんで、いっこう気がつかなかったんだろう。灯が耳の近くへ来て、じいと云う音が聞えるようになってから急に神経が起って来た。だから這う方はなお遅くなる。しかもまだ三足しか歩いちゃいない。ところへ突然初さんの声がした。
「やい、好い加減に出て来ねえか。何をぐずぐずしているんだ。――早くしないと日が暮れちまうよ」
 暗いなかで初さんはたしかに日が暮れちまうと云った。
 自分は這《は》いながら、咽喉仏《のどぼとけ》の角《かど》を尖《とが》らすほどに顎《あご》を突き出して、初さんの方を見た。すると一間《いっけん》ばかり向うに熊の穴見たようなものがあって、その穴から、初さんの顔が――顔らしいものが出ている。自分があまり手間取るんで、初さんが屈《こご》んでこっちを覗《のぞ》き込んでるところであった。この一間をどうして抜け出したか、今じゃ善く覚えていない。何しろできるだけ早く穴まで来て、首だけ出すと、もう初さんは顔を引っ込まして穴の外に立っている。その足が二本自分の鼻の先に見えた。自分はやれ嬉《うれ》しやと狭い所を潜《くぐ》り抜けた。
「何をしていたんだ」
「あんまり狭いもんだから」
「狭いんで驚いちゃ、シキ[#「シキ」に傍点]へは一足《ひとあし》だって踏《ふ》ん込《ご》めっこはねえ。陸《おか》のように地面はねえ所《とこ》だくらいは、どんな頓珍漢《とんちんかん》だって知ってるはずだ」
 初さんはたしかに坑《あな》の中は陸のように地面のない所だと云った。この人は時々思い掛けない事を云うから、今度もたしかにとただし書《がき》をつけて、その確実な事を保証して置くんである。自分は何か云い訳をするたんびに、初さんから容赦なくやっつけられるんで、大抵は黙っていたが、この時はつい、
「でもカンテラ[#「カンテラ」に傍点]が消えそうで、心配したもんですから」
と云っちまった。すると初さんは、自分の鼻の先へカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を差しつけて、徐《おもむろ》に自分の顔を検査し始めた。そうして、命令を下した。
「消して見ねえ」
「どうしてですか」
「どうしてでも好いから、消して見ねえ」
「吹くんですか」
 初さんはこの時大きな声を出して笑った。
 自分は喫驚《びっくり》して稀有《けう》な顔をしていた。
「冗談《じょうだん》じゃねえ。何が這入《へっ》てると思う。種油《たねあぶら》だよ、しずくぐらいで消《けえ》てたまるもんか」
 自分はこれでやっと安心した。
「安心したか。ハハハハ」
と初さんがまた笑った。初さんが笑うたんびに、坑《あな》の中がみんな響き出す。その響が収まると前よりも倍静かになる。ところへかあん、かあんとどこかで鑿《のみ》と槌《つち》を使ってる音が伝わって来る。
「聞えるか」
と、初さんが顋《あご》で相図をした。
「聞えます」
と耳を峙《そばだ》てていると、たちまち催促を受けた。
「さあ行こう。今度《こんだ》あ後《おく》れないように跟《つ》いて来な」
 初さんはなかなか機嫌がいい。これは自分が一も二もなく初さんにやられているせいだろうと思った。いくら手苛《てひど》くきめつけられても、初さんの機嫌がいいうちは結構であった。こうなると得になる事がすなわち結構という意味になる。自分はこれほど堕落して、おめおめ初さんの尻を嗅《か》いで行ったら、路が左の方に曲り込んでまた峻《けわ》しい坂になった。
「おい下りるよ」
と初さんが、後《うしろ》も向かず声を掛けた。その時自分は何となく東京の車夫を思い出して苦しいうちにもおかしかった。が初さんはそれとも気がつかず下《お》り出した。自分も負けずに降りる。路は地面を刻んで段々になっている。四五間ずつに折れてはいるが、勘定したら愛宕様《あたごさま》の高さぐらいはあるだろう。これは一生懸命になって、いっしょに降りた。降りた時にほっと息を吐《つ》くと、その息が何となく苦しかった。しかしこれは深い坑《あな》のなかで、空気の流通が悪いからとばかり考えた。実はこの時すでに身体《からだ》も冒《おか》されていたんである。この苦しい息で二三十間来るとまた模様が変った。
 今度は初さんが仰向《あおむ》けに手を突いて、腰から先を入れる。腰から入れるような芸をしなければ通れないほど、坑《あな》の幅も高さも逼《せま》って来たのである。
「こうして抜けるんだ。好く見て置きねえ」
と初さんが云ったと思ったら、胴も頭もずる、ずると抜けて見えなくなった。さすが熟練の功はえらいもんだと思いながら、自分もまず足だけ前へ出して、草鞋《わらじ》で探《さぐり》を入れた。ところが全く宙に浮いてるようで足掛りがちっともない。何でも穴の向うは、がっくり落《おち》か、それでなくても、よほど勾配《こうばい》の急な坂に違ないと見当《けんとう》をつけた。だから頭から先へ突っ込めばのめって怪我をするばかり、また足をむやみに出せば引っ繰り返るだけと覚ったから、足を棒のように前へ寝かして、そうして後《うしろ》へ手を突いた。ところがこの所作《しょさ》がはなはだ不味《まず》かったので、手を突くと同時に、尻もべったり突いてしまった。ぴちゃりと云った。アテシコ[#「アテシコ」に傍点]を伝わって臀部《でんぶ》へ少々感じがあった。それほど強く尻餅《しりもち》を搗《つ》いたと見える。自分はしまったと思いながらも直《すぐ》両足を前の方へ出した。ずるりと一尺ばかり振《ぶ》ら下げたが、まだどこへも届かない。仕方がないから、今度は手の方を前へ運ばせて、腰を押し
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