婆さんは、ちょっと自分を見たなりで、
「あっち」
と云い捨てて門口《かどぐち》の方へ行った。まるで相手にしちゃいない。自分にはあっち[#「あっち」に傍点]の見当《けんとう》がわからなかったが、とにかく婆さんの出て来た方角だろうと思って、奥の方へ歩いて行ったら、大きな台所へ出た。真中に四斗樽《しとだる》を輪切にしたようなお櫃《はち》が据《す》えてある。あの中に南京米《ナンキンまい》の炊《た》いたのがいっぱい詰ってるのかと思ったら、――何しろ自分が三度三度一箇月食っても食い切れないほどの南京米なんだから、食わない前からうんざりしちまった。――顔を洗う所も見つけた。台所を下りて長い流の前へ立って、冷たい水で、申し訳のために頬辺《ほっぺた》を撫《な》でて置いた。こうなると叮嚀《ていねい》に顔なんか洗うのは馬鹿馬鹿しくなる。これが一歩進むと、顔は洗わなくっても宜《い》いものと度胸が坐ってくるんだろう。昨日《きのう》の赤毛布《あかげっと》や小僧は全くこう云う順序を踏んで進化したものに違ない。
顔はようやく自力で洗った。飯はどうなる事かと、またのそのそ台所へ上《あが》った。ところへ幸《さいわ》い婆さんが表から帰って来て膳立《ぜんだ》てをしてくれた。ありがたい事に味噌汁《みそしる》がついていたんで、こいつを南京米の上から、ざっと掛けて、ざくざくと掻《か》き込んだんで、今度《こんだ》は壁土の味を噛《か》み分《わけ》ないで済んだ。すると婆さんが、
「御飯《おまんま》が済んだら、初《はつ》さんがシキ[#「シキ」に傍点]へ連れて行くって待ってるから、早くおいでなさい」
と、箸《はし》も置かない先から急《せ》き立てる。実はもう一杯くらい食わないと身体《からだ》が持つまいと思ってたところだが、こう催促されて見ると、無論御代りなんか盛《よそ》う必要はない。自分は、
「はあ、そうですか」
と立ち上がった。表へ出て見ると、なるほど上《あが》り口《くち》に一人掛けている。自分の顔を見て、
「御前《おめえ》か、シキ[#「シキ」に傍点]へ行くなあ」
と、石でもぶっ欠くような勢いで聞いた。
「ええ」
と素直に答えたら、
「じゃ、いっしょに来ねえ」
と云う。
「この服装《なり》でも好いんですか」
と叮嚀《ていねい》に聞き返すと、
「いけねえ、いけねえ。そんな服装で這入《へえ》れるもんか。ここへ親分とこから一枚《いちめえ》借りて来てやったから、此服《こいつ》を着るがいい」
と云いながら、例の筒袖《つつそで》を抛《ほう》り出した。
「そいつが上だ。こいつが股引《ももひき》だ。そら」
とまた股引を抛《な》げつけた。取りあげて見ると、じめじめする。所々に泥が着いている。地《じ》は小倉《こくら》らしい。自分もとうとうこの御仕着《おしきせ》を着る始末になったんだなと思いながら、絣《かすり》を脱いで上下《うえした》とも紺揃《こんぞろい》になった。ちょっと見ると内閣の小使のようだが、心持から云うと、小使を拝命した時よりも遥《はるか》に不景気であった。これで支度《したく》は出来たものと思込んで土間へ下りると、
「おっと待った」
と、初さんがまた勇み肌の声を掛けた。
「これを尻《けつ》の所へ当てるんだ」
初さんが出してくれたものを見ると、三斗俵坊《さんだらぼ》っちのような藁布団《わらぶとん》に紐《ひも》をつけた変挺《へんてこ》なものだ。自分は初さんの云う通り、これを臀部《でんぶ》へ縛《しば》りつけた。
「それが、アテシコ[#「アテシコ」に傍点]だ。好《よ》しか。それから鑿《のみ》だ。こいつを腰ん所へ差してと……」
初さんの出した鑿を受け取って見ると、長さ一尺四五寸もあろうと云う鉄の棒で、先が少し尖《とが》っている。これを腰へ差す。
「ついでにこれも差すんだ。少し重いぜ。大丈夫か。しっかり受け取らねえと怪我をする」
なるほど重い。こんな槌《つち》を差してよく坑《あな》の中が歩けるもんだと思う。
「どうだ重いか」
「ええ」
「それでも軽いうちだ。重いのになると五斤ある。――いいか、差せたか、そこでちょっと腰を振って見な。大丈夫か。大丈夫ならこれを提《さ》げるんだ」
とカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を出しかけたが、
「待ったり。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の前に一つ草鞋《わらじ》を穿《は》いちまいねえ」
草鞋《わらじ》の新しいのが、上り口にある。さっき婆さんが振《ぶ》ら下げてたのは、大方これだろう。自分は素足《すあし》の上へ草鞋を穿《は》いた。緒《お》を踵《かかと》へ通してぐっと引くと、
「駑癡《どじ》だなあ。そんなに締める奴があるかい。もっと指《いび》の股を寛《ゆる》めろい」
と叱られた。叱られながら、どうにか、こうにか穿いてしまう。
「さあ、これでいよいよおしまいだ」
と初さんは饅頭笠《まんじゅうがさ》とカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を渡した。饅頭笠と云うのか筍笠《たけのこがさ》というのか知らないが、何でも懲役人の被《かぶ》るような笠であった。その笠を神妙《しんびょう》に被る。それからカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を提《さ》げる。このカンテラ[#「カンテラ」に傍点]は提げるようにできている。恰好《かっこう》は二合入りの石油缶《せきゆかん》とも云うべきもので、そこへ油を注《さ》す口と、心《しん》を出す孔《あな》が開《あ》いてる上に、細長い管《くだ》が食っついて、その管の先がちょっと横へ曲がると、すぐ膨《ふく》らんだカップ[#「カップ」に傍点]になる。このカップ[#「カップ」に傍点]へ親指を突っ込んで、その親指の力で提げるんだから、指五本の代りに一本で事を済ますはなはだ実用的のものである。
「こう、穿《は》めるんだ」
と初さんが、勝栗《かちぐり》のような親指を、カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の孔の中へ突込《つっこ》んだ。旨《うま》い具合にはまる。
「そうら」
初さんは指一本で、カンテラ[#「カンテラ」に傍点]を柱時計の振子のように、二三度振って見せた。なかなか落ちない。そこで自分も、同じように、調子をとって揺《うごか》して見たがやっぱり落ちなかった。
「そうだ。なかなか器用だ。じゃ行くぜ、いいか」
「ええ、好《よ》ござんす」
自分は初さんに連れられて表へ出た。所が降っている。一番先へ笠《かさ》へあたった。仰向《あおむ》いて、空模様を見ようとしたら、顎《あご》と、口と、鼻へぽつぽつとあたった。それからあとは、肩へもあたる。足へもあたる。少し歩くうちには、身体中じめじめして、肌へ抜けた湿気が、皮膚の活気で蒸《む》し返される。しかし雨の方が寒いんで、身体のほとぼりがだんだん冷《さ》めて行くような心持であったが、坂へかかると初さんがむやみに急ぎ出したんで、濡《ぬ》れながらも、毛穴から、雨を弾《はじ》き出す勢いで、とうとうシキ[#「シキ」に傍点]の入口まで来た。
入口はまず汽車の隧道《トンネル》の大きいものと云って宜《よろ》しい。蒲鉾形《かまぼこなり》の天辺《てっぺん》は二間くらいの高さはあるだろう。中から軌道が出て来るところも汽車の隧道《トンネル》に似ている。これは電車が通う路なんだそうだ。自分は入口の前に立って、奥の方を透《す》かして見た。奥は暗かった。
「どうだここが地獄の入口だ。這入《はい》れるか」
と初さんが聞いた。何だか嘲弄《ちょうろう》の語気を帯びている。さっき飯場《はんば》を出て、ここまで来る途中でも、方々の長屋の窓から首を出して、
「昨日《きのう》のだ」
「新来《しんき》だ」
と口々に罵《ののし》っていたが、その様子を見ると単に山の中に閉じ込められて物珍らしさの好奇心とは思えなかった。その言葉の奥底にはきっと愚弄《ぐろう》の意味がある。これを布衍《ふえん》して云うと、一つには貴様もとうとうこんな所へ転げ込んで来た、いい気味だ、ざまあ見ろと云う事になる。もう一つは御気の毒だが来たって駄目だよ。そんな脂《やに》っこい身体《からだ》で何が勤まるものかと云う事にもなる。だから「昨日《きのう》のだ」「新来《しんき》だ」と騒ぐうちには、自分が彼らと同様の苦痛を甞《な》めなければならないほど堕落したのを快く感ずると共に、とうていこの苦痛には堪《た》えがたい奴だとの軽蔑《けいべつ》さえ加わっている。彼らは他人《ひと》を彼らと同程度に引き摺《ず》り落して喝采《かっさい》するのみか、ひとたび引き摺り落したものを、もう一返《いっぺん》足の下まで蹴落《けおと》して、堕落は同程度だが、堕落に堪《た》える力は彼らの方がかえって上だとの自信をほのめかして満足するらしい。自分は途上《みちみち》「昨日のだ」と聞くたんびに、懲役笠《ちょうえきがさ》で顔を半分隠しながら通り抜けて、シキ[#「シキ」に傍点]の入口まで来た。そこで初さんがまた愚弄《ぐろう》したんだから、自分は少しむっとして、
「這入《はい》れますとも。電車さえ通《かよ》ってるじゃありませんか」
と答えた。すると初さんが、
「なに這入れる? 豪義《ごうぎ》な事を云うない」
と云った。ここで「這入れません」と恐れ入ったら、「それ見ろ」と直《すぐ》こなされるにきまってる。どっちへ転んでも駄目なんだから別に後悔もしなかった。初さんは、いきなり、シキ[#「シキ」に傍点]の中へ飛び込んだ。自分も続いて這入った。這入って見ると、思ったよりも急に暗くなる。何だか足元がおっかなくなり出したには降参した。雨が降っていても外は明かるいものだ。その上|軌道《レール》の上はとにかく、両側はすこぶる泥《ぬか》っている。それだのに初さんは中《ちゅう》っ腹《ぱら》でずんずん行く。自分も負けない気でずんずん行く。
「シキ[#「シキ」に傍点]の中でおとなしくしねえと、すのこ[#「すのこ」に傍点]の中へ抛《ほう》り込まれるから、用心しなくっちゃあいけねえ」
と云いながら初さんは突然暗い中で立ち留《どま》った。初さんの腰には鑿《のみ》がある。五斤の槌《つち》がある。自分は暗い中で小さくなって、
「はい」
と返事をした。
「よしか、分ったか。生きて出る料簡《りょうけん》なら生意気にシキ[#「シキ」に傍点]なんかへ這入らねえ方が増しだ」
これは向うむきになって、初さんが歩き出した時に、半分は独《ひと》り言《ごと》のように話した言葉である。自分は少からず驚いた。坑《あな》の中は反響が強いので、初さんの言葉がわんわんわんと自分の耳へ跳《は》ねっ返って来る。はたして初さんの言う通りなら、飛んだ所へ這入ったもんだ。実は死ぬのも同然な職業であればこそ坑夫になろうと云う気も起して見たんだが、本当に死ぬなら――こんな怖《こわ》い商売なら――殺されるんなら――すのこ[#「すのこ」に傍点]の中へ抛《な》げ込まれるなら――すのこ[#「すのこ」に傍点]とは全体どんなもんだろうと思い出した。
「すのこ[#「すのこ」に傍点]とはどんなもんですか」
「なに?」
と初さんが後《うしろ》を振り向いた。
「すのこ[#「すのこ」に傍点]とはどんなもんですか」
「穴だ」
「え?」
「穴だよ。――鉱《あらがね》を抛《ほう》り込んで、纏《まと》めて下へ降《さ》げる穴だ。鉱といっしょに抛り込まれて見ねえ……」
で言葉を切ってまたずんずん行く。
自分はちょっと立ち留った。振り返ると、入口が小さい月のように見える。這入《はい》るときは、これがシキ[#「シキ」に傍点]ならと思った。聞いたほどでもないと思った。ところが初さんに威嚇《おど》かされてから、いかな平凡な隧道《トンネル》も、大いに容子《ようす》が変って来た。懲役笠《ちょうえきがさ》をたたく冷たい雨が恋しくなった。そこで振り返ると、入口が小さい月のように見える。小さい月のように見えるほど奥へ這入ったなと、振り返って始めて気がついた。いくら曇っていてもやっぱり外が懐《なつ》かしい。真黒な天井《てんじょう》が上から抑《おさ》えつけてるのは心持のわるいものだ。しかもこの天井がだんだん低くなって来るように感ぜられる。と思うと、軌道《レール》を横へ切れて、右へ
前へ
次へ
全34ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング