ばと云う問題であった。気の毒がるだろうか、泣くだろうか、それともあさましいと云って愛想《あいそ》を尽かすだろうかと疑って見たが、これは難なく気の毒がって、泣くに違ないと結論してしまった。それで一目《ひとめ》くらいはこの姿を二人に見せたいような気がした。それから昨夜《ゆうべ》囲炉裏《いろり》の傍《そば》でさんざん馬鹿にされた事を思い出して、あの有様を二人に見せたらばと考えた。ところが今度は正反対で、二人共|傍《そば》にいてくれないで仕合せだと思った。もし見られたらと想像して眼前に、意気地《いくじ》のない、大いに苛《いじ》められている自分の風体《ふうてい》と、ハイカラの女を二人|描《えが》き出したら、はなはだ気恥ずかしくなって腋《わき》の下から汗が出そうになった。これで見ると、坑夫に堕落すると云う事実その物はさほど苦にならぬのみか、少しは得意の気味で、ただ坑夫になりたての幅《はば》の利《き》かないところだけを、女に見せたくなかった訳になる。自分の器量を下げるところは、誰にも隠したいが、ことに女には隠したい。女は自分を頼るほどの弱いものだから、頼られるだけに、自分は器量のある男だと云う証拠をどこまでも見せたいものと思われる。結婚前の男はことにこの感じが深いようだ。人間はいくら窮した場合でも、時々は芝居気《しばいぎ》を出す。自分がアテシコ[#「アテシコ」に傍点]を臀《しり》に敷いて、深い坑のなかで、カンテラ[#「カンテラ」に傍点]を提《ひっさ》げたまま、休んだ時の考えは、全く芝居じみていた。ある意味から云うと、これが苦痛の骨休めである。公然の骨休めとも云うべき芝居は全くここから発達したものと思う。自分は発達しない芝居の主人公を腹の中で演じて、落胆しながら得意がっていた。
 ところへ突然肺臓を打ち抜かれたと思うくらいの大きな音がした。その音は自分の足の下で起ったのか、頭の上で起ったのか、尻を懸《か》けた丸太《まるた》も、黒い天井《てんじょう》も一度に躍《おど》り上ったから、分からない。自分の頸《くび》と手と足が一度に動いた。縁側《えんがわ》に脛《はぎ》をぶらさげて、膝頭《ひざがしら》を丁《ちょう》と叩《たた》くと、膝から下がぴくんと跳《は》ねる事がある。この時自分の身体《からだ》の動き方は全くこれに似ている。しかしこれよりも倍以上劇烈に来たような気がした。身体ばかりじゃない、精神がその通りである。一人芝居の真最中でとんぼ返りを打って、たちまち我れに帰った。音はまだつづいている。落雷を、土中《どちゅう》に埋《うず》めて、自由の響きを束縛《そくばく》したように、渋《しぶ》って、焦《いら》って、陰《いん》に籠《こも》って、抑《おさ》えられて、岩にあたって、包まれて、激して、跳《は》ね返されて、出端《では》を失って、ごうと吼《ほ》えている。
「驚いちゃいけねえ」
と初さんが云った。そうして立ち上がった。自分も立ち上がった。三人の坑夫も立ち上がった。
「もう少しだ。やっちまうかな」
と、鑿《のみ》を取り上げた。初さんと自分は作事場《さくじば》を出る。ところへ煙《けむ》が来た。煙硝《えんしょう》の臭《におい》が、眼へも鼻へも口へも這入《はい》った。噎《む》せっぽくって苦しいから、後《うしろ》を向いたら、作事場ではかあん、かあんともう仕事を始めだした。
「なんですか」
と苦しい中で、初さんに聞いて見た。実はさっきの音が耳に応《こた》えた時、こりゃ坑内で大破裂が起ったに違ないから、逃げないと生命《いのち》が危ないとまで思い詰めたくらいだのに、初さんはますます深く這入る気色《けしき》だから、気味が悪いとは思ったが、何しろ自由行動のとれる身体ではなし、精神は無論独立の気象《きしょう》を具《そな》えていないんだから、いかに先輩だって逃げていい時分には、逃げてくれるだろうと安心して、後《あと》をつけて出ると、むっとするほどの煙《けむ》が向うから吹いて来たんで、こりゃ迂濶《うっかり》深入はできないわと云う腹もあって、かたがた後《うしろ》を向く途端《とたん》に、さっきの連中がもう、煙の中でかあん、かあん、鉱《あらがね》を叩《たた》いているのが聞えたんで、それじゃやっぱり安心なのかと、不審のあまりこの質問を起して見たんである。すると初さんは、煙の中で、咳《せき》を二つ三つしながら、
「驚かなくってもいい。ダイナマイト[#「ダイナマイト」に傍点]だ」
と教えてくれた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫でねえかも知れねえが、シキ[#「シキ」に傍点]へ這入《はい》った以上、仕方がねえ。ダイナマイト[#「ダイナマイト」に傍点]が恐ろしくっちゃ一日だって、シキ[#「シキ」に傍点]へは這入れねえんだから」
 自分は黙っていた。初さんは煙の中を押し分けるようにずんずん潜《くぐ》って行く。満更《まんざら》苦しくない事もないんだろうが、一つは新参の自分に対して、景気を見せるためじゃないかと思った。それとも煙は坑《あな》から坑へ抜け切って、陸《おか》の上なら、大抵晴れ渡った時分なのに、路が暗いんでいつまでも煙が這《は》ってるように感じたり噎《む》せっぽく思ったのかも知れない。そうすると自分の方が悪くなる。
 いずれにしても苦いところを我慢して尾《つ》いて行った。また胎内潜《たいないくぐ》りのような穴を抜けて、三四間ずつの段々を、右へ左へ折れ尽すと、路が二股《ふたまた》になっている。その条路《えだみち》の突き当りで、カラカラランと云う音がした。深い井戸へ石片《いしころ》を抛《な》げ込んだ時と調子は似ているが、普通の井戸よりも、遥《はるか》に深いように思われた。と云うものは、落ちて行く間《ま》に、側《がわ》へ当って鳴る音が、冴《さ》えている。ばかりか、よほど長くつづく。最後のカラランは底の底から出て、出るにはよほど手間《てま》がかかる。けれども一本道を、真直《まっすぐ》に上へ抜けるだけで、ほかに逃道がないから、どんなに暇取っても、きっと出てくる。途中で消えそうになると、壁の反響が手伝って、底で出ただけの響は、いかに微《かすか》な遠くであっても、洩《も》らすところなく上まで送り出す。――ざっとこんな音である。カラララン。カカラアン。……
 初さんが留《とま》った。
「聞えるか」
「聞えます」
「スノコ[#「スノコ」に傍点]へ鉱を落してる」
「はああ……」
「ついでだからスノコ[#「スノコ」に傍点]を見せてやろう」
と、急に思いついたような調子で、勢いよく初さんが、一足後へ引いて草鞋《わらじ》の踵《かかと》を向け直した。自分が耳の方へ気を取られて、返事もしないうちに、初さんは右へ切れた。自分も続いて暗いなかへ這入る。
 折れた路はわずか四尺ほどで行き当る。ところをまた右へ廻り込むと、一間ばかり先が急に薄明るく、縦にも横にも広がっている。その中に黒い影が二つあった。自分達がその傍《そば》まで近づいた時、黒い影の一つが、左の足と共に、精一杯前へ出した力を後《うしろ》へ抜く拍子《ひょうし》に、大きな箕《み》を、斜《はす》に抛《な》げ返した。箕は足掛りの板の上に落ちた。カカン、カラカランと云う音が遠くへ落ちて行く。一尺前は大きな穴である。広さは畳|二畳敷《にじょうじき》ぐらいはあるだろう。箕に入れたばら[#「ばら」に傍点]の鉱《あらがね》を、掘子《ほりこ》が抛げ込んだばかりである。突き当りの壁は突立《つッた》っている。微《かすか》なカンテラ[#「カンテラ」に傍点]に照らされて、色さえしっかり分らない上が、一面に濡《ぬ》れて、濡れた所だけがきらきら光っている。
「覗《のぞ》いて見ろ」
 初さんが云った。穴の手前が三尺ばかり板で張り詰めてある。自分は板の三分の一ほどまで踏み出した。
「もっと、出ろ」
と初さんが後から催促する。自分は躊躇《ちゅうちょ》した。これでさえ踏板が外《はず》れれば、どこまで落ちて行くか分らない。ましてもう一尺前へ出れば、いざと云う時、土の上へ飛《と》び退《の》く手間《てま》が一尺だけ遅くなる。一尺は何でもないようだが、ここでは平地《ひらち》の十間にも当る。自分は何分《なにぶん》にも躊躇《ちゅうちょ》した。
「出ろやい。吝《けち》な野郎だな。そんな事で掘子が勤まるかい」
と云われた。これは初さんの声ではなかった。黒い影の一人が云ったんだろう。自分は振り返って見なかった。しかし依然として足は前へ出なかった。ただ眼だけが、露で光った薄暗い向うの壁を伝わって、下の方へ、しだいに落ちて行くと、約一間ばかりは、どうにか見えるが、それから先は真暗だ。真暗だからどこまで視線に這入《はい》るんだか分らない。ただ深いと思えば際限もなく深い。落ちちゃ大変だと神経を起すと、後から背中を突かれるような気がする。足は依然としてもとの位地を持ち応《こた》えていた。すると、
「おい邪魔だ。ちょっと退《ど》きな」
と声を掛けられたんで、振り向くと、一人の掘子が重そうに俵を抱えて立っている。俵の大きさは米俵の半分ぐらいしかない。しかし両手で底を受けて、幾分か腰で支《ささ》えながら、うんと気合を入れているところは、全く重そうだ。自分はこの体《てい》を見て、すぐ傍《わき》へ避《よ》けた。そうして比較的安全な、板が折れても差支《さしつかえ》なく地面へ飛び退けるほどの距離まで退《しりぞ》いた。掘子は、俵で眼先がつかえてるから定めし剣呑《けんのん》がるだろうと思いのほか、容赦なく重い足を運ばして前へ出る。縁《ふち》から二尺ばかり手前まで出て、足を揃《そろ》えたから、もう留まるだろうと見ていると、また出した。余る所は一尺しきゃあない。その一尺へまた五寸ほど切り込んだ。そうして行儀よく右左を揃えた。そうして、うんと云った。胸と腰が同時に前へ出た。危ない。のめったと思う途端《とたん》に、重い俵は、とんぼ返りを打って、掘子の手を離れた。掘子はもとの所へ突っ立っている。落ちた俵はしばらく音沙汰《おとさた》もない。と思うと遠くでどさっ[#「どさっ」に傍点]と云った。俵は底まで落切ったと見える。
「どうだ、あの芸が出来るか」
と初さんが聞いた。自分は、
「そうですねえ」
と首を曲げて、恐れ入ってた。すると初さんも掘子《ほりこ》もみんな笑い出した。自分は笑われても全く致し方がないと思って、依然として恐れ入ってた。その時初さんがこんな事を云って聞かした。
「何になっても修業は要《い》るもんだ。やって見ねえうちは、馬鹿にゃ出来ねえ。お前《めえ》が掘子になるにしたって、おっかながって、手先ばかりで抛《な》げ込んで見ねえ。みんな板の上へ落ちちまって、肝心《かんじん》の穴へは這入《はい》りゃしねえ。そうして、鉱《あらがね》の重みで引っ張り込まれるから、かえって剣呑《けんのん》だ。ああ思い切って胸から突き出してかからにゃ……」
と云い掛けると、ほかの男が、
「二三度スノコ[#「スノコ」に傍点]へ落ちて見なくっちゃ駄目だ。ハハハハ」
と笑った。
 後戻《あともどり》をして元の路《みち》へ出て、半町ほど行くと、掘子は右へ折れた。初さんと自分は真直に坂を下りる。下り切ると、四五間平らな路を縫うように突き当った所で、初さんが留まった。
「おい。まだ下りられるか」
と聞く。実はよほど前から下りられない。しかし中途で降参《こうさん》したら、落第するにきまってるから、我慢に我慢を重ねて、ここまで来たようなものの、内心ではその内もうどん底へ行き着くだろうくらいの目算はあった。そこへ持って来て、相手がぴたりと留まって、一段落《いちだんらく》つけた上、さて改めて、まだ下りる気かと正式に尋ねられると、まだ下りるべき道程《みちのり》はけっして一丁や二丁でないと云う意味になる。――自分は暗いながら初さんの顔を見て考えた。御免蒙《ごめんこうぶ》ろうかしらと考えた。こう云う時の出処進退は、全く相手の思わく一つできまる。いかな馬鹿でも、いかな利口でも同じ事である。だから自分の胸に相談するよりも、初さんの顔色で判断する方が早く片がつく。つまり自分の性格よりも周囲の事情が運命を
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