絶すると云おうか、電光石火と評しようか、実に恐ろしいくらいだった。ある人が、溺《おぼ》れかかったその刹那《せつな》に、自分の過去の一生を、細大《さいだい》漏らさずありありと、眼の前に見た事があると云う話をその後《のち》聞いたが、自分のこの時の経験に因《よ》って考えると、これはけっして嘘じゃなかろうと思う。要するにそのくらい早く、自分は自分の実世界における立場と境遇とを自覚したのである。自覚すると同時に、急に厭《いや》な心持になった。ただ厭では、とても形容が出来ないんだが、さればと云って、別に叙述しようもない心持ちだからただの厭でとめて置く。自分と同じような心持ちを経験した人ならば、ただこれだけで、なるほどあれだなと、直《すぐ》勘《かん》づくだろう。また経験した事がないならば、それこそ幸福だ、けっして知るに及ばない。
その内同じ車室に乗っていたものが二三人立ち上がる。外からも二三人|這入《はい》って来る。どこへ陣取ろうかと云う眼つきできょろきょろするのと、忘れものはないかと云う顔つきでうろうろするのと、それから何の用もないのに姿勢を更《か》えて窓へ首を出したり、欠伸《あくび》をしたりす
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