があって、来たんです。……」
とまでは云ったが、坑夫には愛想が尽きたから、もう、帰るんだとは云わなかった。死ぬんだとはなおさら云わなかった。しかし今までのように、腹の内《なか》で畜生あつかいにして、口先ばかり叮嚀《ていねい》にしていたのとはだいぶん趣《おもむき》が違う。自分はただ洗い攫《ざら》い自分の思わくを話してしまわないだけで、話しただけは真面目に話したんである。すこしも裏表はない。腹から叮嚀《ていねい》に答えた。坑夫はしばらくの間黙って雁首を眺《なが》めていた。それからまた煙草を詰めた。煙が鼻から出だした真最中に口を開《ひら》いた。
 自分がその時この坑夫の言葉を聞いて、第一に驚いたのは、彼の教育である。教育から生ずる、上品な感情である。見識である。熱誠である。最後に彼の使った漢語である。――彼《か》れは坑夫などの夢にも知りようはずがない漢語を安々と、あたかも家庭の間で昨日《きのう》まで常住坐臥《じょうじゅうざが》使っていたかのごとく、使った。自分はその時の有様をいまだに眼の前に浮べる事がある。彼れは大きな眼を見張ったなり、自分の顔を熟視したまま、心持|頸《くび》を前の方に出して
前へ 次へ
全334ページ中290ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング