たのだが、傍《そば》へ来て、つらつら饅頭《まんじゅう》の皿を覗《のぞ》き込んで見ると、恐ろしい蠅だ。しかもそれが皿の前で自分が留まるや否《いな》や足音にパッと四方に散ったんで、おやと思いながら、気を落ちつけて少しく揚饅頭を物色していると、散らばった蠅は、もう大風が通り越したから大丈夫だよと申し合せたように、再びぱっと饅頭の上へ飛び着いて来た。黄色《きいろ》い油切った皮の上に、黒いぽちぽちが出鱈目《でたらめ》にできる。手を出そうかなと思う矢先へもって来て、急に黒い斑点《はんてん》が、晴夜《せいや》の星宿《せいしゅく》のごとく、縦横に行列するんだから、少し辟易《へきえき》してしまって、ぼんやり皿を見下《みおろ》していた。
「御饅頭を上がんなさるかね。まだ新しい。一昨日《おととい》揚げたばかりだから」
 かみさんは、いつの間《ま》にか盆を拭いてしまって、菓子台の向側《むこうがわ》に立っている。自分は不意と眼を上げて神さんを見た。すると神さんは何と思ったか、いきなり、節太《ふしぶと》の手を皿の上に翳《かざ》して、
「まあ、大変な蠅だ事」
と云いながら、翳した手を竪《たて》に切って、二三度左右へ
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