暗い所や、人のいない所が怖《こわ》くなってぞっとしたに違ない。それほどの娑婆気《しゃばけ》が、戻り掛ける途端《とたん》にもう萌《きざ》していたのである。そうしてどてら[#「どてら」に傍点]に呼ばれれば呼ばれるほど、どてら[#「どてら」に傍点]の方へ近寄れば近寄るほど、この娑婆気は一歩ごとに増長したものと見える。最後に空脛《からすね》を二本、棒のようにどてら[#「どてら」に傍点]の真向うに突っ立てた時は、この娑婆気が最高潮に達した瞬間である。その瞬間に働く気はないかねと来た。御粗末などてら[#「どてら」に傍点]だが非常に旨《うま》く自分の心理状態を利用した勧誘である。だし抜けの質問に一時はぼんやりしたようなものの、ぼんやりから覚《さ》めて見れば、自分はいつか娑婆の人間になっている。娑婆の人間である以上は食わなければならない。食うには働かなくっちゃ駄目だ。
「働いても、いいですが」
 答は何の苦もなく自分の口から滑《すべ》り出してしまった。するとどてら[#「どてら」に傍点]はそうだろうそのはずさと云うような顔つきをした。自分は不思議にもこの顔つきをもっともだと首肯《しゅこう》した。
「働い
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