》はまだだいぶあるくらいは知らぬ間《ま》に感じていたんだろう。行き着いていよいよとならなければ誰がどきん[#「どきん」に傍点]とするものじゃない。したがっていっその事を断行して見ようと云う気にもなる。この一面に曇った世界が苦痛であって、この苦痛をどきん[#「どきん」に傍点]としない程度において免《まぬか》れる望があると思えば重い足も前に出し甲斐がある。まずこのくらいの決心であったらしい。しかしこれはあとから考えた心理状態の解剖である。その当時はただ暗い所へ出ればいい。何でも暗い所へ行かなければならないと、ひたすら暗い所を目的《めあて》に歩き出したばかりである。今考えると馬鹿馬鹿しいが、ある場合になると吾々は死を目的にして進むのを責《せめ》てもの慰藉《いしゃ》と心得るようになって来る。ただし目指す死は必ず遠方になければならないと云う事も事実だろうと思う。少くとも自分はそう考える。あまり近過ぎると慰藉になりかねるのは死と云う因果である。
ただ暗い所へ行きたい、行かなくっちゃならないと思いながら、雲を攫《つか》むような料簡《りょうけん》で歩いて来ると、後《うしろ》からおいおい呼ぶものがある。どんなに魂がうろついてる時でも呼ばれて見ると性根《しょうね》があるのは不思議なものだ。自分は何の気もなく振り向いた。応ずるためと云う意識さえ持たなかったのは事実である。しかし振り向いて見て始めて気がついた。自分はさっきの茶店からまだ二十間とは離れていない。その茶店の前の往来へ、例の袢天《はんてん》とどてら[#「どてら」に傍点]の合《あい》の子《こ》が出て、脂《やに》だらけの歯をあらわに曝《さら》しながらしきりに自分を呼んでいる。
昨夕《ゆうべ》東京を立ってから、まだ人間に口を利《き》いた事がない。人から言葉を掛けられようなどとは夢にも予期していなかった。言葉を掛けられる資格などはまるで無いものと自信し切っていた。ところへ突然呼び懸《か》けられたのだから――粗末な歯並《はなら》びだが向き出しに笑顔を見せてしきりに手招きをしているのだから、ぼんやり振り返った時の心持が、自然と判然《はっきり》すると共に、自分の足はいつの間にか、その男の方へ動き出した。
実を云うとこの男の顔も服装《なり》も動作もあんまり気に入っちゃいない。ことにさっき白い眼でじろじろやられた時なぞは、何となく嫌悪《けんお》の念が胸の裡《うち》に萌《きざ》し掛けたくらいである。それがものの二十間とも歩かないうちに以前の感情はどこかへ消えてしまって、打って変った一種の温味《あたたかみ》を帯びた心持で後帰《あとがえ》りをしたのはなぜだか分らない。自分は暗い所へ行かなければならないと思っていた。だから茶店の方へ逆戻りをし始めると自分の目的とは反対の見当《けんとう》に取って返す事になる。暗い所から一歩《ひとあし》立ち退《の》いた意味になる。ところがこの立退《たちのき》が何となく嬉《うれ》しかった。その後《のち》いろいろ経験をして見たが、こんな矛盾は到《いた》る所に転《ころ》がっている。けっして自分ばかりじゃあるまいと思う。近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考えている。よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。読者もあの性格がこうだの、ああだのと分ったような事を云ってるが、ありゃ、みんな嘘《うそ》をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがってるんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏《まとま》ったものはありゃしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい。本当の人間は妙に纏めにくいものだ。神さまでも手古《てこ》ずるくらい纏まらない物体だ。しかし自分だけがどうあっても纏まらなく出来上ってるから、他人《ひと》も自分同様|締《しま》りのない人間に違ないと早合点《はやがてん》をしているのかも知れない。それでは失礼に当る。
とにかく引き返して目倉縞《めくらじま》の傍《そば》まで行くと、どてら[#「どてら」に傍点]はさも馴《な》れ馴れしい声で
「若い衆《しゅ》さん」
と云いながら、大きな顎《あご》を心持|襟《えり》の中へ引きながら自分の額のあたりを見詰めている。自分は好加減《いいかげん》なところで、茶色の足を二本立てたまま、
「何か用ですか」
と叮嚀《ていねい》に聞いた。これが平生《へいぜい》ならこんなどてら[#「どてら」に傍点]から若い衆さんなんて云われて快よく返辞をする自分じゃない。返辞をするにしてもうん[#「うん」に傍点]とか何だ[#「何だ」に傍点]とかで済したろうと思う。ところがこの時に限って、人相のよくないどてら[#「どてら」に傍点]と自分とは全く同等の人間のような気持がした。別に利害の関係からしてわざと腰を低
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