あ御帰り、用はないからと云う段になって、もう御免蒙《ごめんこうぶ》りますと立ち上ったようなものだ。こっちは馬鹿気《ばかげ》ている。あっちは得意である。
歩き出してから五六間の間は変に腹が立った。しかし不愉快は五六間ですぐ消えてしまった。と思うとまた足が重くなった。――この足だもの。何しろ鉄の才槌《さいづち》を双方の足へ縛《しば》り附けて歩いてるんだから、敏活の行動は出来ないはずだ。あの白い眼にじりじりやられたのも、満更《まんざら》持前の半間《はんま》からばかり来たとも云えまい。こう思い直して見ると下らない。
その上こんな事を気にしていられる身分じゃない。いったん飛び出したからは、もうどうあっても家《うち》へ戻る了簡《りょうけん》はない。東京にさえ居《お》り切れない身体《からだ》だ。たとい田舎《いなか》でも落ちつく気はない。休むと後《うしろ》から追っ掛けられる。昨日《きのう》までのいさくさが頭の中を切って廻った日にはどんな田舎だってやり切れない。だからただ歩くのである。けれども別段に目的《めあて》もない歩き方だから、顔の先一間四方がぼうとして何だか焼き損《そく》なった写真のように曇っている。しかもこの曇ったものが、いつ晴れると云う的《あて》もなく、ただ漠然《ばくぜん》と際限もなく行手に広がっている。いやしくも自分が生きている間は五十年でも六十年でも、いくら歩いても走《かけ》ても依然として広がっているに違いない。ああ、つまらない。歩くのはいたたまれないから歩くので、このぼんやりした前途を抜出すために歩くのではない。抜け出そうとしたって抜け出せないのは知れ切っている。
東京を立った昨夜《ゆうべ》の九時から、こう諦《あきらめ》はつけてはいるが、さて歩き出して見ると、歩きながら気が気でない。足も重い、松が厭《あ》きるほど行列している。しかし足よりも松よりも腹の中が一番苦しい。何のために歩いているんだか分らなくって、しかも歩かなくっては一刻も生きていられないほどの苦痛は滅多《めった》にない。
のみならず歩けば歩くほどとうてい抜ける事のできない曇った世界の中へだんだん深く潜《もぐ》り込んで行くような気がする。振り返ると日の照っている東京はもう代《よ》が違っている。手を出しても足を伸ばしても、この世では届かない。まるで娑婆《しゃば》が違う。そのくせ暖かな朗《ほがら》かな東京は、依然として眼先にありありと写っている。おういと日蔭《ひかげ》から呼びたくなるくらい明かに見える。と同時に足の向いてる先は漠々《ばくばく》たるものだ。この漠々のうちへ――命のあらん限り広がっているこの漠々のうちへ――自分はふらふら迷い込むのだから心細い。
この曇った世界が曇ったなりはびこって、定業《じょうごう》の尽きるまで行く手を塞《ふさ》いでいてはたまらない。留まった片足を不安の念に駆《か》られて一歩前へ出すと、一歩不安の中へ踏み込んだ訳《わけ》になる。不安に追い懸けられ、不安に引っ張られて、やむを得ず動いては、いくら歩いてもいくら歩いても埓《らち》が明くはずがない。生涯《しょうがい》片づかない不安の中を歩いて行くんだ。とてもの事に曇ったものが、いっそだんだん暗くなってくれればいい。暗くなった所をまた暗い方へと踏み出して行ったら、遠からず世界が闇《やみ》になって、自分の眼で自分の身体が見えなくなるだろう。そうなれば気楽なものだ。
意地の悪い事に自分の行く路は明るくもなってくれず、と云って暗くもなってくれない。どこまでも半陰半晴の姿で、どこまでも片づかぬ不安が立て罩《こ》めている。これでは生甲斐《いきがい》がない、さればと云って死に切れない。何でも人のいない所へ行って、たった一人で住んでいたい。それが出来なければいっその事……
不思議な事にいっその事と観念して見たが別にどきんともしなかった。今まで東京にいた時分いっその事と無分別を起しかけた事もたびたびあるが、そのたびたびにどきんとしない事はなかった。後《あと》からぞっ[#「ぞっ」に傍点]として、まあ善かったと思わない事もなかった。ところが今度は天からどきん[#「どきん」に傍点]ともぞっ[#「ぞっ」に傍点]ともしない。どきん[#「どきん」に傍点]とでもぞっ[#「ぞっ」に傍点]とでも勝手にするが善《い》いと云うくらいに、不安の念が胸一杯に広がっていたんだろう。その上いっその事を断行するのが今が今ではないと云う安心がどこかにあるらしい。明日《あした》になるか明後日《あさって》になるか、ことに由《よ》ったら一週間も掛るか、まかり間違えば無期限に延ばしても差支《さしつかえ》ないと高《たか》を括《くく》っていたせいかも知れない。華厳《けごん》の瀑《たき》にしても浅間《あさま》の噴火口《ふんかこう》にしても道程《みちのり
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