く出たんじゃ、けっしてない。するとどてら[#「どてら」に傍点]の方でも自分を同程度の人間と見做《みな》したような語気で、
「御前《おまえ》さん、働く了簡《りょうけん》はないかね」
と云った。自分は今が今まで暗い所へ行くよりほかに用のない身と覚悟していたんだから、藪《やぶ》から棒《ぼう》に働く了簡はないかねと聞かれた時には、何と答えて善《い》いか、さっぱり訳《わけ》が分らずに、空脛《からすね》を突っ張ったまま、馬鹿見たような口を開けて、ぼんやり相手を眺《なが》めていた。
「御前さん、働く了簡はないかね。どうせ働かなくっちゃならないんだろう」
とどてら[#「どてら」に傍点]がまた問い返した。問い返された時分にはこっちの腹も、どうか、こうか、受け答の出来るくらいに眼前の事況《じきょう》を会得《えとく》するようになった。
「働いても善《い》いですが」
これは自分の答である。しかしこの答がいやしくも口に出て来るほどに、自分の頭が間に合せの工面にせよ、やっと片づいたと云うものは、単純ながら一順の過程を通っておる。
自分はどこへ行くんだか分らないが、なにしろ人のいないところへ行く気でいた。のに振り向いてどてら[#「どてら」に傍点]の方へあるき出したのだから、歩き出しながら何となく自分に対して憫然《びんぜん》な感がある。と云うものはいくらどてら[#「どてら」に傍点]でも人間である。人間のいない方へ行くべきものが、人間の方へ引き戻されたんだから、ことほどさように人間の引力が強いと云う事を証拠立てると同時に、自分の所志にもう背《そむ》かねばならぬほどに自分は薄弱なものであったと云う事をも証拠立てている。手短《てみじか》に云うと、自分は暗い所へ行く気でいるんだが、実のところはやむを得ず行くんで、何か引っかかりが出来れば、得《え》たり賢《かしこ》しと普通の娑婆《しゃば》に留まる了簡なんだろうと思われる。幸いに、どてら[#「どてら」に傍点]が向うから引っかかってくれたんで、何の気なしに足が後向《うしろむ》きに歩き出してしまったのだ。云わば自分の大目的に申し訳のない裏切りをちょっとして見た訳になる。だからどてら[#「どてら」に傍点]が働く気はないかねと出てくれずに、御前さん野にするかね、それとも山にするかねとでも切り出したら、しばらく安心して忘れかけた目的を、ぎょっと思い出させられて、急に暗い所や、人のいない所が怖《こわ》くなってぞっとしたに違ない。それほどの娑婆気《しゃばけ》が、戻り掛ける途端《とたん》にもう萌《きざ》していたのである。そうしてどてら[#「どてら」に傍点]に呼ばれれば呼ばれるほど、どてら[#「どてら」に傍点]の方へ近寄れば近寄るほど、この娑婆気は一歩ごとに増長したものと見える。最後に空脛《からすね》を二本、棒のようにどてら[#「どてら」に傍点]の真向うに突っ立てた時は、この娑婆気が最高潮に達した瞬間である。その瞬間に働く気はないかねと来た。御粗末などてら[#「どてら」に傍点]だが非常に旨《うま》く自分の心理状態を利用した勧誘である。だし抜けの質問に一時はぼんやりしたようなものの、ぼんやりから覚《さ》めて見れば、自分はいつか娑婆の人間になっている。娑婆の人間である以上は食わなければならない。食うには働かなくっちゃ駄目だ。
「働いても、いいですが」
答は何の苦もなく自分の口から滑《すべ》り出してしまった。するとどてら[#「どてら」に傍点]はそうだろうそのはずさと云うような顔つきをした。自分は不思議にもこの顔つきをもっともだと首肯《しゅこう》した。
「働いても、いいですが、全体どんな事をするんですか」
と自分はここで再び聞き直して見た。
「大変|儲《もう》かるんだが、やって見る気はあるかい。儲かる事は受合《うけあい》なんだ」
どてら[#「どてら」に傍点]は上機嫌の体《てい》で、にこにこ笑いながら、自分の返事を待っている。どうせどてら[#「どてら」に傍点]の笑うんだから、愛嬌《あいきょう》にもなんにもなっちゃいない。元来《がんらい》笑うだけ損になるようにでき上がってる顔だ。ところがその笑い方が妙になつかしく思われて
「ええやって見ましょう」
と受けてしまった。
「やって見る? そいつあ結構だ。君|儲《もう》かるよ」
「そんなに儲けなくっても、いいですが……」
「え?」
どてら[#「どてら」に傍点]はこの時妙な声を出した。
「全体どんな仕事なんですか」
「やるなら話すが、やるだろうね、お前さん。話した後で厭《いや》だなんて云われちゃ困るが。きっとやるだろうね」
どてら[#「どてら」に傍点]はむやみに念を押す。自分はそこで、
「やる気です」
と答えた。しかしこの答は前のように自然天然には出なかった。云わばいきみ[#「いきみ」に傍点]出し
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