ない。ただの顔である。日本一の美人の顔がただの顔であるごとく、坑夫の顔もただの顔である。そう云う自分も骨と肉で出来たただの人間である。意味も何もない。
 自分はこう云う状態で、無人《むにん》の境《さかい》を行くような心持で、親方の家《うち》までやって来た。案内を頼むと、うちから十五六の娘が、がらりと障子《しょうじ》をあけて出た。こう云う娘がこんな所にいようはずがないんだから、平生《へいぜい》ならはっと驚く訳だが、この時はまるで何の感じもなかった。ただ器械のように挨拶《あいさつ》をすると、娘は片手を障子へ掛けたまま、奥を振り向いて、
「御父《おとっ》さん。御客」
と云った。自分はこの時、これが飯場頭《はんばがしら》の娘だなと合点《がてん》したが、ただ合点したまでで、娘がまだそこに立っているのに、娘の事は忘れてしまった。ところへ親方が出て来た。
「どうしたい」
「行って来ました」
「健康診断を貰って来たかい。どれ」
 自分は右の手に握っていた診断書を、つい忘れて、おやどこへやったろうかと、始めて気がついた。
「持ってるじゃないか」
と親方が云う。なるほど持っていたから、皺《しわ》を伸《の》して親方に渡した。
「気管支炎。病気じゃないか」
「ええ駄目です」
「そりゃ困ったな。どうするい」
「やっぱり置いて下さい」
「そいつあ、無理じゃないか」
「ですが、もう帰れないんだから、どうか置いて下さい。小使でも、掃除番でもいいですから。何でもしますから」
「何でもするったって、病気じゃ仕方がないじゃないか。困ったな。しかしせっかくだから、まあ考えてみよう。明日までには大概様子が分るだろうからまた来て見るがいい」
 自分は石のようになって、飯場《はんば》へ帰って来た。
 その晩は平気で囲炉裏《いろり》の側《そば》に胡坐《あぐら》をかいていた。坑夫共が何と云っても相手にしなかった。相手にする料簡《りょうけん》も出なかった。いくら騒いでも、愚弄《からか》っても、よしんば踏んだり蹴《け》たりしても、彼らは自分と共に一枚の板に彫りつけられた一団の像のように思われた。寝るときは布団《ふとん》は敷かなかった。やはり囲炉裏の傍《そば》に胡坐をかいていた。みんな寝着いてから、自分もその場へ仮寝《うたたね》をした。囲炉裏へ炭を継《つ》ぐものがないので、火の気《け》がだんだん弱くなって、寒さがしだいに増して来たら、眼が覚めた。襟《えり》の所がぞくぞくする。それから起きて表へ出て空を見たら、星がいっぱいあった。あの星は何しに、あんなに光ってるのだろうと思って、また内へ這入《はい》った。金《きん》さんは相変らず平たくなって寝ている。金さんはいつジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]になるんだろう。自分と金さんとどっちが早く死ぬだろう。安さんは六年このシキ[#「シキ」に傍点]に這入ってると聞いたが、この先何年|鉱《あらがね》を敲《たた》くだろう。やっぱりしまいには金さんのように平たくなって、飯場の片隅《かたすみ》に寝るんだろう。そうして死ぬだろう。――自分は火のない囲炉裏の傍《はた》に坐って、夜明まで考えつづけていた。その考えはあとから、あとから、仕切《しき》りなしに出て来たが、いずれも干枯《ひから》びていた。涙も、情《なさけ》も、色も香《か》もなかった。怖《こわ》い事も、恐ろしい事も、未練も、心残りもなかった。
 夜が明けてから例のごとく飯を済まして、親方の所へ行った。親方は元気のいい声をして、
「来たか、ちょうど好い口が出来た。実はあれからいろいろ探したがどうも思わしいところがないんでね、――少し困ったんだが。とうとう旨《うま》い口を見附《めっ》けた。飯場の帳附《ちょうつけ》だがね。こりゃ無ければ、なくっても済む。現に今までは婆さんがやってたくらいだが、せっかくの御頼みだから。どうだねそれならどうか、おれの方で周旋ができようと思うが」
「はあありがたいです。何でもやります。帳附と云うと、どんな事をするんですか」
「なあに訳はない。ただ帳面をつけるだけさ。飯場にああ多勢いる奴が、やや草鞋《わらじ》だ、やや豆だ、ヒジキだって、毎日いろいろなものを買うからね。そいつを一々帳面へ書き込んどいて貰やあ好いんだ。なに品物は婆さんが渡すから、ただ誰が何をいくら取ったと云う事が分るようにして置いてくれればそれで結構だ。そうするとこっちでその帳面を見て勘定日に差し引いて給金を渡すようにする。――なに力業《ちからわざ》じゃないから、誰でもできる仕事だが、知っての通りみんな無筆の寄合《よりあい》だからね。君がやってくれるとこっちも大変便利だが、どうだい帳附は」
「結構です、やりましょう」
「給金は少くって、まことに御気の毒だ。月に四円だが。――食料を別にして」
「それでたくさんです」

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