る死と云う実際と、人間の獣類たる坑夫の住んでいるシキ[#「シキ」に傍点]とを結びつけて、二三日前まで不足なく生い立った坊っちゃんを突然宙に釣るして、この二つの間に置いたとすると、坊っちゃんは始めてなるほどと首肯する。運命は不可思議な魔力で可憐な青年を弄《もてあそ》ぶもんだと云う事が分る。すると今までただの山であったものが、ただの山でなくなる。ただの土であったものがただの土でなくなる。青いばかりと思った空が、青いだけでは済まなくなる。この病院の、この診察場の、この薬品の、この臭いまでが夢のような不思議になる。元来この椅子《いす》に腰を掛けている本人からしてが、何物だかほとんど要領を得ない。本人以外の世界は明瞭《めいりょう》に見えるだけで、どんな意味のある世界かさっぱり見当《けんとう》がつかない。自分は、診察場と薬局とをかねたこの一室の椅子に倚《よ》って、敷物と、洋卓《テエーブル》と、薬瓶《くすりびん》と、窓と、窓の外の山とを見廻した。もっとも明瞭な視覚で見廻したが、すべてがただ一幅の画《え》と見えるだけで、その他《ほか》には何物をも認める事ができなかった。
そこへ戸を開けて、医者があらわれた。その顔を見ると、やっぱり坑夫の類型《タイプ》である。黒のモーニングに縞《しま》の洋袴《ズボン》を着て、襟《えり》の外へ顎《あご》を突き出して、
「御前か、健康診断をして貰うのは」
と云った。この語勢には、馬に対しても、犬に対しても、是非腹の内《なか》で云うべきほどの敬意が籠《こも》っていた。
「ええ」
と自分は椅子を離れた。
「職業は何だ」
「職業って別に何にもないんです」
「職業がない。じゃ、今まで何をして生きていたのか」
「ただ親の厄介《やっかい》になっていました」
「親の厄介になっていた。親の厄介になって、ごろごろしていたのか」
「まあ、そうです」
「じゃ、ごろつきだな」
自分は答をしなかった。
「裸になれ」
自分は裸になった。医者は聴診器で胸と背中をちょっと視《み》た上、いきなり自分の鼻を撮《つま》んだ。
「息をして見ろ」
息が口から出る。医者は口の所へ手をあてがった。
「今度《こんだ》口を塞《ふさ》ぐんだ」
医者は鼻の下へ手をあてた。
「どうでしょう。坑夫になれますか」
「駄目だ」
「どこか悪いですか」
「今書いてやる」
医者は四角な紙片《かみきれ》へ、何か書いて抛《ほう》り出すように自分に渡した。見ると気管支炎とある。
気管支炎と云えば肺病の下地《したじ》である。肺病になれば助かりようがない。なるほどさっき薬の臭《におい》を嗅《か》いで死ぬんだなと虫が知らせたのも無理はない。今度はいよいよ死ぬ事になりそうだ。これから先二三週間もしたら、金《きん》さんのようによっしょいよっしょいでジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]を見せられて、そのあげくには自分がとうとうジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]になって、それから思う存分|囃《はや》し立てられて、敲《たた》き立てられて、――もっとも新参だから囃してくれるものも、敲いてくれるものも、ないかも知れないが――とどの詰りは、――どうなる事か自分にも分らない。それは分らなくってもよろしい。生きて動いている今ですら分らない。ただ世界がのべつ、のっぺらぽうに続いているうちに、あざやかな色が幾通りも並んでるばかりである。坑夫は世の中で、もっとも穢《きた》ないものと感じていたが、かように万物を色の変化と見ると、穢ないも穢なくないもある段じゃない。どうでも構わないから、どうとも勝手にするがいい、自分が懐手《ふところで》をしていたら運命が何とか始末をつけてくれるだろう。死んでもいい、生きてもいい。華厳《けごん》の瀑《たき》などへ行くのは面倒になった。東京へ帰る? 何の必要があって帰る。どうせ二三度|咳《せき》をせくうちの命だ。ここまで運命が吹きつけてくれたもんだから、運命に吹き払われるまでは、ここにいるのが、一番骨が折れなくって、一番便利で、一番順当な訳だ。ここにいて、ただ堕落の修業さえすれば、死ぬまでは持てるだろう。肺病患者にほかの修業はむずかしいかも知れないが、堕落の修業なら――ふと往きに眼についた蒲公英《たんぽぽ》に出逢《であ》った。さっきはもったいないほど美しい色だと思ったが、今見ると何ともない。なぜこれが美しかったんだろうと、しばらく立ち留まって、見ていたが、やっぱり美しくない。それからまたあるき出した。だらだら坂を登ると、自然と顔が仰向《あおむき》になる。すると例の通り長屋から、坑夫が頬杖《ほおづえ》を突いて、自分を見下《みおろ》している。さっきまではあれほど厭《いや》に見えた顔がまるで土細工《つちざいく》の人形の首のように思われる。醜《みにく》くも、怖《こわ》くも、憎らしくも
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