答えた。しかし別段に嬉しいとも思わなかった。ようやく安心したとまでは固《もとよ》り行かなかった。自分の鉱山における地位はこれでやっときまった。
翌日《あくるひ》から自分は台所の片隅に陣取って、かたのごとく帳附《ちょうつけ》を始めた。すると今まであのくらい人を軽蔑《けいべつ》していた坑夫の態度ががらりと変って、かえって向うから御世辞を取るようになった。自分もさっそく堕落の稽古《けいこ》を始めた。南京米《ナンキンまい》も食った。南京虫《ナンキンむし》にも食われた。町からは毎日毎日ポン引《びき》が椋鳥《むくどり》を引張って来る。子供も毎日連れられてくる。自分は四円の月給のうちで、菓子を買っては子供にやった。しかしその後《のち》東京へ帰ろうと思ってからは断然やめにした。自分はこの帳附を五箇月間無事に勤めた。そうして東京へ帰った。――自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。
底本:「夏目漱石全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年1月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年4月13日公開
2004年2月26日修正
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