顔が出したくないんです」
と答えると、自分の態度と、自分の顔つきと、自分の語勢を注意していた安さんが急に噴《ふ》き出した。
「冗談云っちゃいけねえ。そんな酔狂があるもんか。世の中へ顔が出したくないた何の事だ。贅沢《ぜいたく》じゃねえか。そんな身分に一日でも好いからなって見てえくらいだ」
「代れれば代って上げたいと思います」
と至極《しごく》真面目に云うと、安さんは、また噴き出した。
「どうも手のつけようがないね。考えて御覧な。世の中へ顔が出したくないものがさ、このシキ[#「シキ」に傍点]へ顔が出したくなれるかい」
「ちっとも出したくはありません。仕方がないから――仕方がないんです。昨夕《ゆうべ》も今日も散々|苛責《いじめ》られました」
 安さんはまた笑い出した。
「太《ふて》え野郎だ。誰が苛責た。年の若いものつらまえて。よしよしおれが今に敵《かたき》を打ってやるから。その代り帰るんだぜ」
 自分はこの時大変心丈夫になった。なおなお留《とど》まる気になった。あんな獰猛《どうもう》もこっちさえ強くなりゃちっとも恐ろしかないんだ、十把一束《じっぱひとからげ》に罵倒するくらいの勇気がだんだん出てくるんだと思った。そこで安さんに敵は取ってくれないでも好いから、どうか帰さずに当分置いて貰えまいかと頼んだ。安さんは、あまりの馬鹿らしさに、気の毒そうな顔をして、呆《あき》れ返っていたが、
「それじゃ、いるさ。――何も頼むの頼まないのって、そりゃ君の勝手だあね。相談するがものはないや」
「でも、あなたが承知して下さらないと、いにくいですから」
「せっかくそう云うんなら、当分にするがいい。長くいちゃいけない」
 自分は謹《つつし》んで安さんの旨《むね》を領《りょう》した。実際自分もその考えでいたんだから、これはけっして御交際《おつきあい》の挨拶《あいさつ》ではなかった。それからいろいろな話をしたがシキ[#「シキ」に傍点]の中の述懐と大した変りはなかった。ただ安さんの兄《あに》さんが高等官になって長崎にいると云う事を聞いて、大いに感動した。安さんの身になっても、兄さんの身になっても、定めし苦しいだろうと思うにつけ、自分と自分の親と結びつけて考え出したら何となく悲しくなった。帰る時に安さんが出口まで送って来て、相談でもあるならいつでも来るが好いと云ってくれた。
 表へ出ると、いつの間《ま》にか曇った空が晴れて、細い月が出ている。路は存外明るい、その代り大変寒い。袷《あわせ》を通して、襯衣《シャツ》を通して、蒲鉾形《かまぼこなり》の月の光が肌まで浸《し》み込んで来るようだ。両袖を胸の前へ合せて、その中へ鼻から下を突込んで肩をできるだけ聳《そび》やかして歩行《ある》き出した。身体《からだ》はいじけているが腹の中はさっきよりだいぶん豊かになった。何の当分のうちだ。馴《な》れればそう苦にする事はない。何しろ一万余人もかたまって、毎日毎日いっしょに働いて、いっしょに飯を食って、いっしょに寝ているんだから、自分だって七日も練習すれば、一人前《いちにんまえ》に堕落する事はできるに違ない。――この時自分の頭の中には、堕落の二字がこの通りに出て来た。しかしただこの場合に都合のいい文字として湧《わ》いて出たまでで、堕落の内容を明かに代表していなかったから、別に恐ろしいとも思わなかった。それで、比較的元気づいて飯場《はんば》へ帰って来た。五六間手前まで来ると、何だかわいわい云っている。外は淋《さび》しい月である。自分は家《うち》の騒ぎを聞いて、淋しい月を見上げて、しばらく立っていた。そうしたら、どうも這入《はい》るのが厭《いや》になった。月を浴びて外に立っているのも、つらくなった。安さんの所へ行って泊めてもらいたくなった。一歩引き返して見たが、あんまりだと気を取り直して、のそのそ長屋へ這入った。横手に広い間《ま》があって、上り口からは障子《しょうじ》で立て切ってある。電気灯が頭の上にあるから影は一つも差さないが、騒ぎはまさにこの中《うち》から出る。自分は下駄《げた》を脱いで、足音のしないように、障子の傍《そば》を通って、二階へ上がった。段々を登り切って、大きな部屋を見渡した時、ほっと一息ついた。部屋には誰もいない。
 ただ金《きん》さんが平たく煎餅《せんべい》のようになって寝ている。それから例の帆木綿《ほもめん》にくるまって、ぶら下がってる男もいる。しかし両方とも極《きわ》めて静かだ。いてもいないと同じく、部屋は漠然《ばくぜん》としてただ広いものだ。自分は部屋の真中まで来て立ちながら考えた。床を敷いて寝たものだろうか、ただしは着のみ着のままで、ごろりと横になるか、または昨夕《ゆうべ》の通り柱へ倚《もた》れて夜を明そうか。ごろ寝は寒い、柱へ倚《よ》り懸《かか》るのは苦しい。
前へ 次へ
全84ページ中79ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング