ようにたわいなくなった。その時飯場頭はようやく口を利《き》いた。奇麗《きれい》さっぱりと利いた。
「じゃ置く事にしよう。だが規則だから、医者に一遍見て貰ってね。健康の証明書を持って来なくっちゃいけない。――今日と――今日は、もう遅いから、明日《あした》の朝、行って見て貰ったらよかろう。――診察場かい。診察場はこれから南の方だ。上がって来る時、見えたろう。あの青いペンキ塗りの家《うち》だ。じゃ今日は疲れたろうから、飯場へ帰って緩《ゆっ》くり御休み」
と云って窓を閉《た》てた。窓を閉てる前に自分はちょっと頭を下げて、飯場へ引返した。緩《ゆっ》くり御休と云ってくれた飯場頭《はんばがしら》の親切はありがたいが、緩くり寝られるくらいなら、こんなに苦しみはしない。起きていれば獰猛組《どうもうぐみ》、寝れば南京虫《ナンキンむし》に責められるばかりだ。たまたま飯の蓋《ふた》を取れば咽喉《のど》へ通らない壁土が出て来る。――しかしいる。いるときめた以上は、どうしてもいて見せる。少くとも安さんが生きてるうちはいる。シキ[#「シキ」に傍点]の人間がみんな南京虫になっても、安さんさえ生きて働いてるうちは、自分も生きて働く考えである。こう考えながら半丁ほどの路を降りて飯場《はんば》へ帰って、二階へ上がった。上がると案のじょう大勢|囲炉裏《いろり》の傍《そば》に待ち構えている。自分はくさくさしたが、できるだけ何喰わぬ顔をして、邪魔にならないような所へ坐った。すると始まった。皮肉だか、冷評だか、罵詈《ばり》だか、滑稽《こっけい》だか、のべつに始まった。
一々覚えている。生涯《しょうがい》忘れられないほどに、自分の柔らかい頭を刺激したから、よく覚えている。しかし一々繰返す必要はない。まず大体|昨日《きのう》と同じ事と思えば好い。自分は急に安さんに逢《あ》いたくなった。例の夕食《ゆうめし》を我慢して二杯食って、みんなの眼につかないようにそっと飯場を抜け出した。
山中組はジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]の通った石垣の間を抜けて、だらだら坂の降り際《ぎわ》を、右へ上《のぼ》ると斜《はす》に頭の上に被《かぶ》さっている大きな槐《えんじゅ》の奥にある。夕暮の門口《かどぐち》を覗《のぞ》いたら、一人の掘子《ほりこ》がカンテラの灯《ひ》で筒服《つつっぽう》の掃除をしていた。中は存外静かである。
「安さんは、もうお帰りになりましたか」
と叮嚀《ていねい》に聞くと、掘子は顔を上げてちょいと自分を見たまま、奥を向いて、
「おい、安さん、誰か尋ねて来たよ」
と呼び出しにかかるや否や、安さんは待ってたと云わんばかりに足音をさせて出て来た。
「やあ来たな。さあ上《あが》れ」
見ると安さんは唐桟《とうざん》の着物に豆絞《まめしぼり》か何《な》にかの三尺を締めて立っている。まるで東京の馬丁《べっとう》のような服装《なり》である。これには少し驚いた。安さんも自分の様子を眺《なが》めて首を傾《かし》げて、
「なるほど東京を走ったまんまの服装《なり》だね。おれも昔はそう云う着物を着たこともあったっけ。今じゃこれだ」
と両袖《りょうそで》の裄《ゆき》を引っ張って見せる。
「何と見える。車引かな」
と云うから、自分は遠慮してにやにや笑っていた。安さんは、
「ハハハハ根性《こんじょう》はこれよりまだ堕落しているんだ。驚いちゃいけない」
自分は何と答えていいか分らないから、やはりにやにや笑って立っていた。この時分は手持無沙汰《てもちぶさた》でさえあればにやにやして済ましたもんだ。そこへ行くと安さんは自分より遥《はる》か世馴《よな》れている。この体《てい》を見て、
「さっきから来るだろうと思って待っていた。さあ上《あが》れ」
と向うから始末をつけてくれた。この人は世馴れた知識を応用して、世馴れない人を救《たす》ける方の側《がわ》だと感心した。こいつを逆にして馬鹿にされつけていたから特別に感心したんだろう。そこで安さんの云う通り長屋へ上って見た。部屋はやっぱり広いが、自分の泊った所ほどでもない。電気灯は点《つ》いている。囲炉裏《いろり》もある。ただ人数《にんず》が少い、しめて五六人しかいない。しかも、それが向うに塊《かたま》ってるから、こっちはたった二人である。そこでまた話を始めた。
「いつ帰る」
「帰らない事にしました」
安さんは馬鹿だなあと云わないばかりの顔をして呆《あき》れている。
「あなたのおっしゃった事は、よく分っています。しかし僕だって、酔興《すいきょう》にここまで来た訳じゃないんですから、帰るったって帰る所はありません」
「じゃやっぱり世の中へ顔が出せないような事でもしたのか」
と安さんは鋭い口調で聞いた。何だか向うの方がぎょっとしたらしい。
「そうでもないんですが――世の中へ
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