《うれ》しい。自分が嬉しさの余り、疲れた足を擦《ず》りながら、いそいそ近づいてくると、初さんは奇怪《けげん》な顔をして、
「やあ出て来たな。よく路《みち》が分ったな」
と云った。自分が案内につけられながら、他《ひと》を置き去りにして、何とかして何とか、てててててと云う唄《うた》をうたって、大いに焦《じら》して置いて、他が大迷《おおまご》つきに、迷《まご》ついて、穴の角《かど》へ頭をぶっつけて割って見ようとまで思ったあげく、やっとの事で安さんの御情《おなさけ》で出て来れば、「よく路が分ったな」と空とぼけている。その癖親方が怖《こわ》いものだから、途中で待ち合せて、いっしょに連れて帰ろうと云う目算《もくろみ》である。自分は石へ腰を掛けて薄笑いをしているこの案内の頭の上へ唾液《つばき》を吐きかけてやろうかと思った。しかし自分は死ぬのを断念したばかりである。当分はここに留《とど》まらなくっちゃならない身体《からだ》である。唾液を吐きかければ、喧嘩《けんか》になるだけである。喧嘩をすれば負けるだけである。負けた上にスノコ[#「スノコ」に傍点]の中へぶちこまれてはせっかく死ぬのを断念した甲斐《かい》がない。そこで、こう云う答をした。
「どうか、こうか出て来ました」
すると初さんはなおさら不思議な顔をして、
「へえ。感心だね。一人で出て来たのか」
と聞いた。その時自分は年の割にはうまくやった。旨《うま》くやったと云うくらいだから、ただ自分の損にならないようにと云うだけで、それより以外に賞《ほ》める価値《ねうち》のある所作《しょさ》じゃないが、とにかく十九にしては、なかなか複雑な曲者《くせもの》だと思う。と云うのは、こう聞かれた時に、安さんの名前がつい咽喉《のど》の先まで出たんである。ところをとうとう云わずにしまったのが自慢なのだ。随分くだらない自慢だが訳を話せば、こんな料簡《りょうけん》であった。山中組の安さんは勢力のある坑夫に違ない。この安さんがわざわざ第一見張所の傍《そば》まで見ず知らずの自分を親切に連れて来てくれたと云う事が知れ渡れば、この案内者は面目を失うにきまっている。責任のある自分が、責任を抛《ほう》り出して、先へ坑《あな》を飛び出してしまったと分る以上は――しかもそれが悪意から出たと明瞭《めいりょう》に証拠《しょうこ》だてられる以上は、こいつは親方に対して済ましちゃいられない。となると後できっと敵《かたき》を打つだろう。無責任が露見《ばれ》るのは痛快だが――自分はけっして寛大の念に制せられたなんて耶蘇教流《ヤソきょうりゅう》の嘘《うそ》はつかない。――そこまでは痛快だが、敵打《かたきうち》は大《おおい》に迷惑する。実のところ自分はこの迷惑の念に制せられた。それで、
「ええ、いろいろ路を聞いて出て来ました」
とおとなしい返事をして置いた。
初さんは半分失望したような、半分安心したような顔つきをしたが、やがて石から腰を上げて、
「親方の所へ行こう」
とまた歩き出した。自分は黙って尾《つ》いて行った。昨日《きのう》親方に逢《あ》ったのは飯場《はんば》だが、親方の住んでる所は別にある。長屋の横を半丁ほど上《のぼ》ると、石垣で二方の角《かど》を取って平《なら》した地面の上に二階建がある。家はさほど見苦しくもないが、家のほかには木も庭もない。相変らず二階の窓から悪魔が首を出している。入口まで来て、初さんが外から声を掛けると、窓をがらりと開けて、飯場頭《はんばがしら》が顔を出した。米利安《めりやす》の襯衣《シャツ》の上へどてら[#「どてら」に傍点]を着たままである。
「帰《けえ》ったか。御苦労だった。まああっちへ行って休みねえ」
と云うが早いか初さんは消えてなくなった。後《あと》は二人になる。親方は窓の中から、自分は表に立ったまま、談話《はなし》をした。
「どうです」
「大概見て来ました」
「どこまで降りました」
「八番坑まで降りました」
「八番坑まで。そりゃ大変だ。随分ひどかったでしょう。それで……」
と心持首を前の方へ出した。
「それで――やっぱりいるつもりです」
「やっぱり」
と繰り返したなり、飯場頭はじっと自分の顔を見ていた。自分も黙って立っていた。二階からは依然として首が出ている。おまけに二つばかり殖《ふ》えた。この顔を見ると、厭《いや》で厭でたまらない。飯場へ帰ってから、この顔に取り巻かれる事を思い出すと、ぞっとする。それでもいる気である。どんな辛抱をしてもいる気である。しかし「やっぱりいるつもりです」と断然答えて置いて、二階の顔を不意に見上げた時には、さすがに情なかった。こんな奴といっしょに置いてくれと、手を合せて拝まなければ始末がつかないようになり下がったのかと思うと、身体《からだ》も魂も塩を懸《か》けた海鼠《なまこ》の
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