どうかして布団《ふとん》を敷きたい。ことによれば今日は疲れ果てているから、南京虫《ナンキンむし》がいても寝られるかも知れない。それに蒲団《ふとん》の奇麗《きれい》なのを選《よ》ったらよかろう。ことさら日によって、南京虫の数が違わないとも限るまい。といろいろな理窟《りくつ》をつけて布団を出して、そうっと潜《もぐ》り込んだ。
この晩の、経験を記憶のまま、ここに書きつけては、自分がお話しにならない馬鹿だと吹聴《ふいちょう》する事になるばかりで、ほかに何の利益も興味もないからやめる。一口《ひとくち》に云うと、昨夜《ゆうべ》と同じような苦しみを、昨夜以上に受けて、寝るが早いか、すぐ飛び起きちまった。起きた後で、あれほど南京虫に螫《さ》されながら、なぜ性懲《しょうこり》もなくまた布団《ふとん》を引っ張り出して寝たもんだろうと後悔した。考えると、全くの自業自得《じごうじとく》で、しかも常識のあるものなら誰でも避《よ》けられる、また避けなければならない自業自得だから、我れながら浅ましい馬鹿だと、つくづく自分が厭《いや》になって、布団の上へ胡坐《あぐら》をかいたまま、考え込んでいると、また猛烈にちくりと螫された。臀《しり》と股《もも》と膝頭《ひざがしら》が一時に飛び上がった。自分は五位鷺《ごいさぎ》のように布団の上に立った。そうして、四囲《あたり》を見廻した。そうして泣き出した。仕方がないから、紺《こん》の兵児帯《へこおび》を解いて、四つに折って、裸の身体中所嫌わず、ぴしゃぴしゃ敲《たた》き始めた。それから着物を着た。そうして昨夜の柱の所へ行った。柱に倚《よ》りかかった。家《うち》が恋しくなった。父よりも母よりも、艶子さんよりも澄江さんよりも、家の六畳の間が恋しくなった。戸棚に這入《はい》ってる更紗《さらさ》の布団と、黒天鵞絨《くろびろうど》の半襟《はんえり》の掛かった中形の掻捲《かいまき》が恋しくなった。三十分でも好いから、あの布団を敷いて、あの掻捲を懸《か》けて、暖《あっ》たかにして楽々寝て見たい、今頃は誰があの部屋へ寝ているだろうか。それとも自分がいなくなってから後《のち》は、机を据《す》えたまんま、空《がら》ん胴《どう》にしてあるかしらん。そうすると、あの布団も掻捲も、畳んだなり戸棚にしまってあるに違ない。もったいないもんだ。父も母も澄江さんも艶子さんも南京虫に食われないで仕合せだ。今頃は熟睡しているだろう。羨《うらや》ましい。――それとも寝られないで、のつそつしているかしらん。父は寝られないと疳癪《かんしゃく》を起して、夜中に灰吹をぽんぽん敲《たた》くのが癖だ。煙草《たばこ》を呑《の》むんだと云うが、煙草は仮託《かこつけ》で、実は、腹立紛れに敲きつけるんじゃないかと思う。今頃はしきりに敲いてるかも知れない。苦々《にがにが》しい倅《せがれ》だと思って敲いてるか、どうなったろうと心配の余り眼を覚まして敲いてるか。どっちにしても気の毒だ。しかしこっちじゃそれほどにも思っていないから、先方《さき》でもそう苦にしちゃいまい。母は寝られないと手水《ちょうず》に起きる。中庭の小窓を明けて、手を洗って、桟《さん》をおろすのを忘れて、翌朝《あくるあさ》よく父に叱られている。昨夜も今夜もきっと叱られるに違ない。澄江さんはぐうぐう寝ている――どうしても寝ている。自分のいる前では、丸くなったり、四角になったりいろいろな芸をして、人を釣ってるが、いなくなれば、すぐに忘れて、平生《へいぜい》の通り御膳《ごぜん》をたべて、よく寝る女だから、是非に及ばない。あんな女は、今まで見た新聞小説にはけっして出て来ないから、始めは不思議に思ったが、ちゃんと証拠があるんだから確かである。こう云う女に恋着しなければならないのは、よッぽどの因果《いんが》だ。随分憎らしいと思うが、憎らしいと思いながらもやッぱり惚《ほ》れ込んでいるらしい。不都合な事だ。今でも、あの色の白い顔が眼前《めさき》にちらちらする。怪《け》しからない顔だ。艶子さんは起きてる。そうして泣いてるだろう。はなはだ気の毒だ。しかしこっちで惚れた覚《おぼえ》もなければ、また惚れられるような悪戯《いたずら》をした事がないんだから、いくら起きていても、泣いてくれても仕方がない。気の毒がる事は、いくらでも気の毒がるが仕方がない。構わない事にする。――そこで最後には、ほかの事はどうともするから、ただ安々と楽寝がさせて貰いたい。不断の白い飯も虫唾《むしず》が走るように食いたいが、それよりか南京虫《ナンキンむし》のいない床《とこ》へ這入《はい》りたい。三十分でも好いからぐっすり寝て見たい。その後《あと》でなら腹でも切る。……
こう考えているとまた夜が明けた。考えている途中でいつか寝たものと見えて、眼が覚《さ》めた時は、何にも考え
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