らない自分はまた例の所へ来たなと感づいて、往きに臍《へそ》の近所が氷りつきそうであった事を思い出しつつ、今か今かと冷たい足を運んで行ったが、※[#「易+鳥」、第4水準2−94−27]《いすか》の嘴《はし》と善《い》い方へばかり、食い違って、行けば行くほど、水が浅くなる。足が軽くなる。ついにはまた乾いた路へ出てしまった。初さんに、
「もう済んだでしょうか」
と聞いて見ると、初さんはただ笑っていた。その時は自分も愉快だったが、しばらくすると、例の梯子《はしご》の下へ出た。水は胸までくらい我慢するがこの梯子には、――せめて帰り路だけでも好いから、遁《のが》れたかったが、やっぱりちょうどその下へ出て来た。自分は蜀《しょく》の桟道《さんどう》と云う事を人から聞いて覚えていた。この梯子は、桟道を逆《さかさ》に釣るして、未練なく傾斜の角度を抜きにしたものである。自分はそこへ来ると急に足が出なくなった。突然|脚気《かっけ》に罹《かか》ったような心持になると、思わず、腰を後《うしろ》へ引っ張られた。引っ張られたのは初さんに引っ張られたのかと思う読者もあるかもしれないが、そうじゃない。そう云う気分が起ったんで、強いて形容すれば、疝気《せんき》に引っ張られたとでも叙《じょ》したら善かろう。何しろ腰が伸《の》せない。もっともこれは逆桟道《さかさんどう》の祟《たた》りだと一概に断言する気でもない、さっきから案内の初さんの方で、だいぶ御機嫌《ごきげん》が好いので、相手の寛大な御情《おなさけ》につけ上って、奮発の箍《たが》がしだいしだいに緩《ゆる》んだのもたしかな事実である。何しろ歩けなくなった。この腰附を見ていた初さんは、
「どうだ歩けそうもねえな。まるで屁《へ》っぴり腰だ。ちっと休むが好い。おれは遊びに行って来るから」
と云ったぎり、暗い所を潜《くぐ》って、どこへか出て行った。
あとは云うまでもなく一人になる。自分はべっとりと、尻を地びたへ着けた。アテシコ[#「アテシコ」に傍点]はこう云うときに非常に便利になる。御蔭《おかげ》で、岩で骨が痛んだり、泥で着物が汚《よご》れたりする憂いがないだけ、惨憺《みじめ》なうちにも、まだ嬉しいところがあった。そうして、硬く曲った背中を壁へ倚《も》たせた。これより以上は横のものを竪《たて》にする気もなかった。ただそのままの姿勢で向うの壁を見詰めていた。身体《からだ》が動かないから、心も働かないのか、心が居坐りだから、身体が怠けるのか、とにかく、双方|相《あい》び合って、生死《せいし》の間に彷徨《ほうこう》していたと見えて、しばらくは万事が不明瞭《ふめいりょう》であった。始めは、どうか一尺立方でもいいから、明かるい空気が吸って見たいような気がしたが、だんだん心が昏《くら》くなる。と坑《あな》のなかの暗いのも忘れてしまう。どっちがどっちだか分らなくなって朦朧《もうろう》のうちに合体稠和《がったいちゅうわ》して来た。しかしけっして寝たんじゃない。しんとして、意識が稀薄になったまでである。しかしその稀薄な意識は、十倍の水に溶いた娑婆気《しゃばッき》であるから、いくら不透明でも正気は失わない。ちょうど差し向いの代りに、電話で話しをするくらいの程度――もしくはこれよりも少しく不明瞭な程度である。かように水平以下に意識が沈んでくるのは、浮世の日が烈《はげ》し過ぎて困る自分には――東京にも田舎《いなか》にもおり終《おお》せない自分には――煩悶《はんもん》の解熱剤《げねつざい》を頓服《とんぷく》しなければならない自分には――神経繊維の端《はじ》の端まで寄って来た過度の刺激を散らさなければならない自分には――必要であり、願望であり、理想である。長蔵さんに引張られながら、道々空想に描いた坑夫生活よりも、たしかに上等の天国である。もし駆落《かけおち》が自滅の第一着なら、この境界《きょうがい》は自滅の――第何着か知らないが、とにかく終局地を去る事遠からざる停車場《ステーション》である。自分は初さんに置いて行かれた少時《しばし》の休憩時間内に、図《はか》らずもこの自滅の手前まで、突然釣り込まれて、――まあ、どんな心持がしたと思う。正直に云えば嬉しかった。しかし嬉しいと云う自覚は十倍の水に溶き交ぜられた正気の中に遊離しているんだから、ほかの娑婆気と同じく、劇烈には来ない。やっぱり稀薄である。けれど自覚はたしかにあった。正気を失わないものが、嬉しいと云う自覚だけを取り落す訳がない。自分の精神状態は活動の区域を狭《せば》められた片輪の心的現象とは違う。一般の活動を恣《ほしいまま》にする自由の天地はもとのごとくに存在して、活動その物の強度が滅却して来たのみだから、平常の我とこの時の我との差はただ濃淡の差である。その最も淡《うす》い生涯《しょうがい》の中
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