《うち》に、淡い喜びがあった。
 もしこの状態が一時間続いたら、自分は一時間の間満足していたろう。一日続いたら一日の間満足したに違ない。もし百年続いたにしても、やっぱり嬉しかったろう。ところが――ここでまた新しい心の活作用に現参《げんざん》した。
 というのはあいにく、この状態が自分の希望通同じ所に留っていてくれなかった。動いて来た。油の尽きかかったランプ[#「ランプ」に傍点]の灯《ひ》のように動いて来た。意識を数字であらわすと、平生《へいぜい》十のものが、今は五になって留まっていた。それがしばらくすると四になる。三になる。推して行けばいつか一度は零《れい》にならなければならない。自分はこの経過に連れて淡くなりつつ変化する嬉《うれ》しさを自覚していた。この経過に連れて淡く変化する自覚の度において自覚していた。嬉しさはどこまで行っても嬉しいに違ない。だから理窟《りくつ》から云うと、意識がどこまで降《さが》って行こうとも、自分は嬉しいとのみ思って、満足するよりほかに道はないはずである。ところがだんだんと競《せ》りおろして来て、いよいよ零に近くなった時、突然として暗中《あんちゅう》から躍《おど》り出した。こいつは死ぬぞと云う考えが躍り出した。すぐに続いて、死んじゃ大変だと云う考えが躍り出した。自分は同時に、かっと眼を開《あ》いた。
 足の先が切れそうである。膝から腰までが血が通《かよ》って氷りついている。腹は水でも詰めたようである。胸から上は人間らしい。眼を開けた時に、眼を開けない前の事を思うと、「死ぬぞ、死んじゃ大変だ」までが順々につながって来て、そこで、ぷつりと切れている。切れた次ぎは、すぐ眼を開いた所作《しょさ》になる。つまり「死ぬぞ」で命の方向転換をやって、やってからの第一所作が眼を開いた訳になるから、二つのものは全く離れている。それで全く続いている。続いている証拠《しょうこ》には、眼を開いて、身の周囲《まわり》を見た時に、「死ぬぞ……」と云う声が、まだ耳に残っていた。たしかに残っていた。自分は声だの耳だのと云う字を使うが、ほかには形容しようがないからである。形容どころではない、実際に「死ぬぞ……」と注意してくれた人間があったとしきゃ受け取れなかった。けれども、人間は無論いるはずはなし。と云って、神――神は大嫌《だいきらい》だ。やっぱり自分が自分の心に、あわてて思い浮べたまでであろうが、それほど人間が死ぬのを苦に病んでいようとは夢にも思い浮べなかった。これだから自殺などはできないはずである。こう云う時は、魂の段取《だんどり》が平生と違うから、自分で自分の本能に支配されながら、まるで自覚しないものだ。気をつけべき事と思う。この例なども、解釈のしようでは、神が助けてくれたともなる。自分の影身《かげみ》につき添っている――まあ恋人が多いようだが――そう云う人々の魂が救ったんだともなる。年の若い割に、自分がこの声を艶子さんとも澄江さんとも解釈しなかったのは、己惚《うぬぼれ》の強い割には感心である。自分は生れつきそれほど詩的でなかったんだろう。
 そこへ初さんがひょっくり帰って来た。初さんを見るが早いか、自分の意識はいよいよ明瞭《めいりょう》になった。これから例の逆桟道《さかさんどう》を登らなくっちゃならない事も、明日《あした》から、鑿《のみ》と槌《つち》でかあんかあんやらなくっちゃならない事も、南京米《ナンキンまい》も、南京虫《ナンキンむし》も、ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]も達磨《だるま》も一時に残らず分ってしまい、そうして最後に自分の堕落がもっとも明かに分った。
「ちったあ気分は好いか」
「ええ少しは好いようです」
「じゃ、そろそろ登ってやろう」
と云うから、礼を云って立っていると、初さんは景気よく段木《だんぎ》を捕《つかま》えて片足|踏《ふ》ん掛《が》けながら、
「登りは少し骨が折れるよ。そのつもりで尾《つ》いて来ねえ」
と振り返って、注意しながら登り出した。自分は何となく寒々しい心持になって、下から見上げると、初さんは登って行く。猿のように登って行く。そろそろ登ってくれる様子も何もありゃしない。早くしないとまた置いてきぼりを食う恐れがある。自分も思い切って登り出した。すると二三段足を運ぶか運ばないうちになるほどと感心した。初さんの云う通り非常に骨が折れる。全く疲れているばかりじゃない。下りる時には、胸から上が比較的前へ出るんで、幾分か背の重みを梯子《はしご》に託する事ができる。しかし上りになると、全く反対で、ややともすると、身体が後《うしろ》へ反《そ》れる。反れた重みは、両手で持ち応《こた》えなければならないから、二の腕から肩へかけて一段ごとに余分の税がかかる。のみならず、手の平《ひら》と五本の指で、この|〆高《しめだ
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