た。この時初さんはますます愉快そうな顔つきだったが、やがて真面目《まじめ》になって、
「八番坑だ。これがどん底だ。水ぐらいあるなあ当前《あたりめえ》だ。そんなに、おっかながるにゃ当らねえ。まあ好いからこっちへ来ねえ」
となかなか承知しないから、仕方なしに、股《また》まで濡《ぬ》らしてついて行った。たださえ暗い坑《あな》の中だから、思い切った喩《たとえ》を云えば、頭から暗闇《くらやみ》に濡れてると形容しても差支《さしつかえ》ない。その上本当の水、しかも坑と同じ色の水に濡れるんだから、心持の悪い所が、倍悪くなる。その上水は踝《くろぶし》からだんだん競《せ》り上がって来る。今では腰まで漬《つ》かっている。しかも動くたんびに、波が立つから、実際の水際以上までが濡れてくる。そうして、濡れた所は乾かないのに、波はことによると、濡れた所よりも高く上がるから、つまりは一寸二寸と身体《からだ》が腹まで冷えてくる。坑で頭から冷えて、水で腹まで冷えて、二重に冷え切って、不知案内《ふちあんない》の所を海鼠《なまこ》のようについて行った。すると、右の方に穴があって、洞《ほら》のように深く開《ひら》いてる中から、水が流れて来る。そうしてその中でかあんかあんと云う音がする。作事場《さくじば》に違いない。初さんは、穴の前に立ったまま、
「そうら。こんな底でも働いてるものがあるぜ。真似ができるか」
と聞いた。自分は、胸が水に浸《ひた》るまで、屈《こご》んで洞の中を覗《のぞ》き込んだ。すると奥の方が一面に薄明るく――明るくと云うが、締りのない、取り留めのつかない、微《かすか》な灯《ひ》を無理に広い間《ま》へ使って、引っ張り足りないから、せっかくの光が暗闇《くらやみ》に圧倒されて、茫然《ぼうぜん》と濁っている体《てい》であった。その中に一段と黒いものが、斜めに岩へ吸いついている辺《あたり》から、かあんかあんと云う音が出た。洞の四面へ響いて、行き所のない苦しまぎれに、水に跳《は》ね返ったものが、纏《まと》まって穴の口から出て来る。水も出てくる。天井の暗い割には水の方に光がある。
「這入《へえ》って見るか」
と云う。自分はぞっと寒気がした。
「這入らないでも好いです」
と答えた。すると初さんが、
「じゃ止《や》めにして置こう。しかし止めるなあ今日だけだよ」
と但《ただ》し書《がき》をつけて、一応自分の顔をとくと見た。自分は案《あん》の定《じょう》釣り出された。
「明日《あした》っから、ここで働くんでしょうか。働くとすれば、何時間水に漬かってる――漬かってれば義務が済むんですか」
「そうさなあ」
と考えていた初さんは、
「一昼夜に三回の交替だからな」
と説明してくれた。一昼夜に三回の交替ならひとくぎり八時間になる。自分は黒い水の上へ眼を落した。
「大丈夫だ。心配しなくってもいい」
初さんは突然慰めてくれた。気の毒になったんだろう。
「だって八時間は働かなくっちゃならないんでしょう」
「そりゃきまりの時間だけは働かせられるのは知れ切ってらあ。だが心配しなくってもいい」
「どうしてですか」
「好《い》いてえ事よ」
と初さんは歩き出した。自分も黙って歩き出した。二三歩水をざぶざぶ云わせた時、初さんは急に振り返った。
「新前《しんめえ》は大抵二番坑か三番坑で働くんだ。よっぽど様子が分らなくっちゃ、ここまで下りちゃ来られねえ」
と云いながら、にやにやと笑った。自分もにやにやと笑った。
「安心したか」
と初さんがまた聞いた。仕方がないから、
「ええ」
と返事をして置いた。初さんは大得意であった。時にどぶどぶ動く水が、急に膝まで減った。爪先で探ると段々がある。一つ、二つと勘定すると三つ目で、水は踝《くろぶし》まで落ちた。それで平らに続いている。意外に早く高い所へ出たんで、非常に嬉《うれ》しかった。それから先は、とんとん拍子《びょうし》に嬉しくなって、曲れば曲るほど地面が乾いて来る。しまいにはぴちゃりとも音のしない所へ出た。時に初さんが器械を見る気があるかと尋ねたが、これは諸方のスノコ[#「スノコ」に傍点]から落ちて来た鉱《あらがね》を聚《あつ》めて、第一坑へ揚げて、それから電車でシキ[#「シキ」に傍点]の外へ運び出す仕掛を云うんだと聞いて、頭から御免蒙《ごめんこうぶ》った。いくら面白く運転する器械でも、明日《あす》の自分に用のない所は見る気にならなかった。器械を見ないとするとこれで、まあ坑内の模様を一応見物した訳になる。そこで案内の初さんが帰るんだと云う通知を与えてくれた。腰きり水に漬《つ》かるのは、いかな初さんも一度でたくさんだと見えて、帰りには比較的|濡《ぬ》れないで済む路を通ってくれた。それでも十間ほどは腫《ふく》ら脛《はぎ》まで水が押し寄せた。この十間を通るときに、様子を知
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