かから出て来る。あの力の出所《でどころ》はとうてい分らない。しかしこの時は一度に出ないで、少しずつ、腕と腹と足へ煮染《にじ》み出すように来たから、自分でも、ちゃんと自覚していた。ちょうど試験の前の晩徹夜をして、疲労の結果、うっとりして急に眼が覚《さ》めると、また五六|頁《ページ》は読めると同じ具合だと思う。こう云う勉強に限って、何を読んだか分らない癖に、とにかく読む事は読み通すものだが、それと同じく自分もたしかに降りたとは断言しにくいが、何しろ降りた事はたしかである。下読《したよみ》をする書物の内容は忘れても、頁の数は覚えているごとく、梯子段の数だけは明かに記憶していた。ちょうど十五あった。十五下り尽しても、まだ初さんが見えないには驚いた。しかし幸《さいわ》い一本道だったから、どぎまぎしながらも、細い穴を這い出すと、ようやく初さんがいた。しかも、例のように無敵な文句は並べずに、
「どうだ苦しかったか」
と聞いてくれた。自分は全く苦しいんだから、
「苦しいです」
と答えた。次に初さんが、
「もう少しだ我慢しちゃ、どうだ」
と奨励《しょうれい》した。次に自分は、
「また梯子があるんですか」
と聞いた。すると初さんが、
「ハハハハもう梯子はないよ。大丈夫だ」
と好意的の笑《えみ》を洩《も》らした。そこで自分も我慢のしついでだと観念して、また初さんの尻について行くと、また下りる。そうして下りるに従って路へ水が溜って来た。ぴちゃぴちゃと云う音がする。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の灯《ひ》で照らして見ると、下谷《したや》辺の溝渠《どぶ》が溢《あふ》れたように、薄鼠《うすねずみ》になってだぶだぶしている。その泥水がまた馬鹿に冷たい。指の股が切られるようである。けれども一面の水だから、せっかく水を抜いた足を、また無惨《むざん》にも水の中へ落さなくっちゃならない。片足を揚げると、五位鷺《ごいさぎ》のようにそのままで立っていたくなる。それでも仕方なしに草鞋《わらじ》の裏を着けるとぴちゃりと云うが早いか、水際から、魚の鰭《ひれ》のような波が立つ。その片側がカンテラ[#「カンテラ」に傍点]の灯できらきらと光るかと思うと、すぐ落ちついてもとに帰る。せっかく平《たいら》になった上をまたぴちゃりと踏み荒らす。魚の鰭がまた光る。こう云う風にして、奥へ奥へと這入《はい》って行くと、水はだんだん深くなる。ここを潜《くぐ》り抜けたら、乾いた所へ出られる事かと、受け合われない行先をあてにして、ぐるりと廻ると、足の甲でとまってた水が急に脛《すね》まで来た。この次にはと、辛抱して、右に折れると、がっくり落ちがして膝《ひざ》まで漬《つ》かっちまう。こうなると、動くたんびにざぶざぶ云う。膝で切る波が渦《うず》を捲《ま》いて流れる。その渦がだんだん股《もも》の方へ押し寄せてくる。全く危険だと思った。ことによれば、何かの原因で水が出たんだから、今に坑《あな》のなかが、いっぱいになりゃしないかと思うと急に腰から腹の中までが冷たくなって来た。しかるに初さんは辟易《へきえき》した体《てい》もなく、さっさと泥水を分けて行く。
「大丈夫なんですか」
と後《うしろ》から聞いて見たが、初さんは別に返事もしずに、依然として、ざぶりざぶりと水を押し分けて行く。自分の考えるところによると、いくら銅山でも水に漬《つ》かっていては、仕事ができるはずがない。こうどぶつく以上は、何か変事でもあるか、または廃坑へでも連れ込まれたに違いない。いずれにしても災難だと、不安の念に冒《おか》されながら、もう一遍初さんに聞こうかしらと思ってるうち、水はとうとう腰まで来てしまった。
「まだ這入るんですか」
と、自分はたまらなくなったから、後《うしろ》から初さんを呼び留めた。この声は普通の質問の声ではない。吾身《わがみ》を思うの余り、命が口から飛び出したようなものである。だから、いざと云う間際《まぎわ》には単音《たんいん》の叫声となってあらわれるところを、まだ初さんの手前を憚《はばか》るだけの余裕があるから、しばらく恐怖の質問と姿を変じたまでである。この声を聞きつけた時は、さすがの初さんも水の中で留まったなり、振り返った。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]を高く差し上げる。眸《ひとみ》を据《す》えると初さんの眉《まゆ》の間に八の字が寄って来た。しかも口元は笑っている。
「どうした。降参したか」
「いえ、この水が……」
と自分は、腰の辺《あたり》を、物凄《ものすご》そうに眺《なが》めた。初さんは毫《ごう》も感心しない。やっぱりにこにこしている。出水《でみず》の往来を、通行人が尻をまくって面白そうに渉《わた》る時のように見えた。自分もこれで疑いは晴れたが、根が臆病だから、念のため、もう一度、
「大丈夫でしょうか」
を繰返し
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