自分は気味の悪いうちにも、こう考えた。初さんの姿が見えるうちに下りてしまわないと、下り損《そこ》なうかも知れない。面目ない事が出来《しゅったい》する。早くするに越した分別はないと決心して、いきなり後《うし》ろ向《むき》になって初さんのように、膝《ひざ》を地《じ》につけて、手で摺《ず》り下《さが》りながら、草鞋《わらじ》の底で段々を探った。
 両手で第一段目を握って、足を好加減《いいかげん》な所へ掛けると、背中が海老《えび》のように曲った。それから、そろそろ足を伸ばし出した。真直《まっすぐ》に立つと、カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の灯《ひ》が胸の所へ来る。じっとしていると燻《えぶ》されてしまう。仕方がないから、片足下げる。手もこれに応じて握り更《か》えなくっちゃならない。おろそうとすると、指で提《さ》げてるカンテラ[#「カンテラ」に傍点]が、とんだところで、始末の悪いように動く。滅多《めった》に振ると、着物が焼けそうになる。大事を取ると壁へぶつかって灯が揉《も》み潰《つぶ》されそうになる。親指へカップ[#「カップ」に傍点]を差し込んで、振子のように動かした時は、はなはだ軽便な器械だと思ったが、こうなると非常に邪魔になる。その上|梯子《はしご》の幅は狭い。段と段の間がすこぶる長い。一段さがるに、普通の倍は骨が折れる。そこへもって来て恐怖が手伝う。そうして握り直すたんびに、段木《だんぎ》がぬらぬらする。鼻を押しつけるようにして、乏しい灯で透《す》かして見ると、へな土が一面に粘《つ》いている。上《のぼ》り下《さが》りの草鞋で踏つけたものと思われる。自分は梯子の途中で、首を横へ出して、下を覗《のぞ》いた。よせば善かったが、つい覗いた。すると急にぐらぐらと頭が廻って、かたく握った手がゆるんで来た。これは死ぬかも知れない。死んじゃ大変だと、噛《かじ》りついたなり、いきなり眼を閉《ねむ》った。石鹸球《シャボンだま》の大きなのが、ぐるぐる散らついてるうちに、初さんが降りて行く。本当を云うと、下を覗いた時にこそ、初さんの姿が見えれば見えるんで、ねぶった眼の前に湧《わ》いて出る石鹸球の中に、初さんがいる訳がない。しかし現にいる。そうして降りて行く。いかにも不思議であった。今考えると、目舞《めまい》のする前に、ちらりと初さんを見たに違ないんだが、ぐらぐらと咄癡《とっち》て、死ぬ方が怖《こわ》くなったもんだから、初さんの影は網膜に映じたなり忘れちまったのが、段木に噛りついて眼を閉るや否や生き返ったんだろう。ただしそう云う事が学理上あり得るものか、どうか知らない。その当時は夢中である。坑《あな》は暗い、命は惜しい、頭は乱れている。生きてるか死んでるか判然しない。そこへ初さんが降りて行く。眼の中で降りて行くんだか、足の下で降りて行くんだかめちゃくちゃであった。が不思議な事に、眼を開けるや否やまた下を見た。するとやはり初さんが降りている。しかも切っ立った壁の向う側を降りているようだ。今度は二度目のせいか、落ちるほど眩暈《めまい》もしなかったんで、よくよく眸《ひとみ》を据《す》えて見ると、まさに向う側を降りて行く。はてなと思った。ところへカンテラ[#「カンテラ」に傍点]がまたじいと鳴った。保証つきの灯火《あかり》だが、こうなるとまた心細い。初さんはずんずん行くようだ。自分もここに至れば、全速力で降りるのが得策だと考えついた。そこでぬるぬるする段木《だんぎ》を握り更《か》え、握り更えてようやく三間ばかり下がると、足が土の上へ落ちた。踏んで見たがやッぱり土だ。念のため、手を離さずに足元の様子を見ると、梯子《はしご》は全く尽きている。踏んでいる土も幅一尺で切れている。あとは筒抜《つつぬけ》の穴だ。その代り今度は向側《むこうがわ》に別の梯子がついている。手を延ばすと届くように懸《か》けてある。仕方がないから、自分はまたこの梯子へ移った。そうして出来るだけ早く降りた。長さは前のと同様である。するとまた逆の方向に、依然として梯子が懸けてある。どうも是非に及ばない。また移った。やっとの思いでこれも片づけると、新しい梯子はもとのごとく向側に懸っている。ほとんど際限がない。自分が六つめの梯子まで来た時は、手が怠《だる》くなって、足が悸《ふる》え出して、妙な息が出て来た。下を見ると初さんの姿はとくの昔に消えている。見れば見るほど真闇《まっくら》だ。自分のカンテラ[#「カンテラ」に傍点]へはじいじいと点滴《しずく》が垂れる。草鞋《わらじ》の中へは清水《しみず》がしみ込んで来る。
 しばらく休んでいたら、手が抜けそうになった。下り出すと足を踏み外《はず》しかねぬ。けれども下りるだけ下りなければ、のめって逆《さか》さに頭を割るばかりだと思うと、どうか、こうか、段々を下り切る力が、どっ
前へ 次へ
全84ページ中64ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング