切り込んだ。そうして行儀よく右左を揃えた。そうして、うんと云った。胸と腰が同時に前へ出た。危ない。のめったと思う途端《とたん》に、重い俵は、とんぼ返りを打って、掘子の手を離れた。掘子はもとの所へ突っ立っている。落ちた俵はしばらく音沙汰《おとさた》もない。と思うと遠くでどさっ[#「どさっ」に傍点]と云った。俵は底まで落切ったと見える。
「どうだ、あの芸が出来るか」
と初さんが聞いた。自分は、
「そうですねえ」
と首を曲げて、恐れ入ってた。すると初さんも掘子《ほりこ》もみんな笑い出した。自分は笑われても全く致し方がないと思って、依然として恐れ入ってた。その時初さんがこんな事を云って聞かした。
「何になっても修業は要《い》るもんだ。やって見ねえうちは、馬鹿にゃ出来ねえ。お前《めえ》が掘子になるにしたって、おっかながって、手先ばかりで抛《な》げ込んで見ねえ。みんな板の上へ落ちちまって、肝心《かんじん》の穴へは這入《はい》りゃしねえ。そうして、鉱《あらがね》の重みで引っ張り込まれるから、かえって剣呑《けんのん》だ。ああ思い切って胸から突き出してかからにゃ……」
と云い掛けると、ほかの男が、
「二三度スノコ[#「スノコ」に傍点]へ落ちて見なくっちゃ駄目だ。ハハハハ」
と笑った。
後戻《あともどり》をして元の路《みち》へ出て、半町ほど行くと、掘子は右へ折れた。初さんと自分は真直に坂を下りる。下り切ると、四五間平らな路を縫うように突き当った所で、初さんが留まった。
「おい。まだ下りられるか」
と聞く。実はよほど前から下りられない。しかし中途で降参《こうさん》したら、落第するにきまってるから、我慢に我慢を重ねて、ここまで来たようなものの、内心ではその内もうどん底へ行き着くだろうくらいの目算はあった。そこへ持って来て、相手がぴたりと留まって、一段落《いちだんらく》つけた上、さて改めて、まだ下りる気かと正式に尋ねられると、まだ下りるべき道程《みちのり》はけっして一丁や二丁でないと云う意味になる。――自分は暗いながら初さんの顔を見て考えた。御免蒙《ごめんこうぶ》ろうかしらと考えた。こう云う時の出処進退は、全く相手の思わく一つできまる。いかな馬鹿でも、いかな利口でも同じ事である。だから自分の胸に相談するよりも、初さんの顔色で判断する方が早く片がつく。つまり自分の性格よりも周囲の事情が運命を決する場合である。性格が水準以下に下落する場合である。平生《へいぜい》築き上げたと自信している性格が、めちゃくちゃに崩《くず》れる場合のうちでもっとも顕著《けんちょ》なる例である。――自分の無性格論はここからも出ている。
前《ぜん》申す通り自分は初さんの顔を見た。すると、下《お》りようじゃないかと云う親密な情合《じょうあい》も見えない。下りなくっちゃ御前のためにならないと云う忠告の意も見えない。是非下ろして見せると云う威嚇《おどし》もあらわれていない。下りたかろうと焦《じ》らす気色《けしき》は無論ない。ただ下りられまいと云う侮辱《ぶべつ》の色で持ち切っている。それは何ともなかった。しかしその色の裏面には落第と云う切実な問題が潜《ひそ》んでいる。この場合における落第は、名誉より、品性より、何よりも大事件である。自分は窒息しても下りなければならない。
「下りましょう」
と思い切って、云った。初さんは案に相違の様子であったが、
「じゃ、下りよう。その代り少し危ないよ」
と穏かに同意の意を表《ひょう》した。なるほど危ないはずだ。九十度の角度で切っ立った、屏風《びょうぶ》のような穴を真直に下りるんだから、猿の仕事である。梯子《はしご》が懸《かか》ってる。勾配《こうばい》も何にもない。こちらの壁にぴったり食っついて、棒を空《くう》にぶら下げたように、覗《のぞ》くと端《さき》が見えかねる。どこまで続いてるんだか、どこで縛《しば》りつけてあるんだか、まるで分らない。
「じゃ、己《おれ》が先へ下りるからね。気をつけて来たまえ」
と初さんが云った。初さんがこれほど叮嚀《ていねい》な言葉を使おうとは思いも寄らなかった。おおかた神妙《しんびょう》に下りましょうと出たんで、幾分《いくぶん》か憐愍《れんみん》の念を起したんだろう。やがて初さんは、ぐるりと引っ繰り返って、正式に穴の方へ尻を向けた。そうして屈《しゃが》んだ。と思うと、足からだんだん這入《はい》って行く。しまいには顔だけが残った。やがてその顔も消えた。顔が出ている間は、多少の安心もあったが、黒い頭の先までが、ずぼりと穴へはまった時は、さすがに心配なのと心細いのとで、じっとしていられなくって、足をつま立てるようにして、上から見下《みおろ》した。初さんは下りて行く。黒い頭とカンテラ[#「カンテラ」に傍点]の灯《ひ》だけが見える。その時
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