。満更《まんざら》苦しくない事もないんだろうが、一つは新参の自分に対して、景気を見せるためじゃないかと思った。それとも煙は坑《あな》から坑へ抜け切って、陸《おか》の上なら、大抵晴れ渡った時分なのに、路が暗いんでいつまでも煙が這《は》ってるように感じたり噎《む》せっぽく思ったのかも知れない。そうすると自分の方が悪くなる。
いずれにしても苦いところを我慢して尾《つ》いて行った。また胎内潜《たいないくぐ》りのような穴を抜けて、三四間ずつの段々を、右へ左へ折れ尽すと、路が二股《ふたまた》になっている。その条路《えだみち》の突き当りで、カラカラランと云う音がした。深い井戸へ石片《いしころ》を抛《な》げ込んだ時と調子は似ているが、普通の井戸よりも、遥《はるか》に深いように思われた。と云うものは、落ちて行く間《ま》に、側《がわ》へ当って鳴る音が、冴《さ》えている。ばかりか、よほど長くつづく。最後のカラランは底の底から出て、出るにはよほど手間《てま》がかかる。けれども一本道を、真直《まっすぐ》に上へ抜けるだけで、ほかに逃道がないから、どんなに暇取っても、きっと出てくる。途中で消えそうになると、壁の反響が手伝って、底で出ただけの響は、いかに微《かすか》な遠くであっても、洩《も》らすところなく上まで送り出す。――ざっとこんな音である。カラララン。カカラアン。……
初さんが留《とま》った。
「聞えるか」
「聞えます」
「スノコ[#「スノコ」に傍点]へ鉱を落してる」
「はああ……」
「ついでだからスノコ[#「スノコ」に傍点]を見せてやろう」
と、急に思いついたような調子で、勢いよく初さんが、一足後へ引いて草鞋《わらじ》の踵《かかと》を向け直した。自分が耳の方へ気を取られて、返事もしないうちに、初さんは右へ切れた。自分も続いて暗いなかへ這入る。
折れた路はわずか四尺ほどで行き当る。ところをまた右へ廻り込むと、一間ばかり先が急に薄明るく、縦にも横にも広がっている。その中に黒い影が二つあった。自分達がその傍《そば》まで近づいた時、黒い影の一つが、左の足と共に、精一杯前へ出した力を後《うしろ》へ抜く拍子《ひょうし》に、大きな箕《み》を、斜《はす》に抛《な》げ返した。箕は足掛りの板の上に落ちた。カカン、カラカランと云う音が遠くへ落ちて行く。一尺前は大きな穴である。広さは畳|二畳敷《にじょうじき》ぐらいはあるだろう。箕に入れたばら[#「ばら」に傍点]の鉱《あらがね》を、掘子《ほりこ》が抛げ込んだばかりである。突き当りの壁は突立《つッた》っている。微《かすか》なカンテラ[#「カンテラ」に傍点]に照らされて、色さえしっかり分らない上が、一面に濡《ぬ》れて、濡れた所だけがきらきら光っている。
「覗《のぞ》いて見ろ」
初さんが云った。穴の手前が三尺ばかり板で張り詰めてある。自分は板の三分の一ほどまで踏み出した。
「もっと、出ろ」
と初さんが後から催促する。自分は躊躇《ちゅうちょ》した。これでさえ踏板が外《はず》れれば、どこまで落ちて行くか分らない。ましてもう一尺前へ出れば、いざと云う時、土の上へ飛《と》び退《の》く手間《てま》が一尺だけ遅くなる。一尺は何でもないようだが、ここでは平地《ひらち》の十間にも当る。自分は何分《なにぶん》にも躊躇《ちゅうちょ》した。
「出ろやい。吝《けち》な野郎だな。そんな事で掘子が勤まるかい」
と云われた。これは初さんの声ではなかった。黒い影の一人が云ったんだろう。自分は振り返って見なかった。しかし依然として足は前へ出なかった。ただ眼だけが、露で光った薄暗い向うの壁を伝わって、下の方へ、しだいに落ちて行くと、約一間ばかりは、どうにか見えるが、それから先は真暗だ。真暗だからどこまで視線に這入《はい》るんだか分らない。ただ深いと思えば際限もなく深い。落ちちゃ大変だと神経を起すと、後から背中を突かれるような気がする。足は依然としてもとの位地を持ち応《こた》えていた。すると、
「おい邪魔だ。ちょっと退《ど》きな」
と声を掛けられたんで、振り向くと、一人の掘子が重そうに俵を抱えて立っている。俵の大きさは米俵の半分ぐらいしかない。しかし両手で底を受けて、幾分か腰で支《ささ》えながら、うんと気合を入れているところは、全く重そうだ。自分はこの体《てい》を見て、すぐ傍《わき》へ避《よ》けた。そうして比較的安全な、板が折れても差支《さしつかえ》なく地面へ飛び退けるほどの距離まで退《しりぞ》いた。掘子は、俵で眼先がつかえてるから定めし剣呑《けんのん》がるだろうと思いのほか、容赦なく重い足を運ばして前へ出る。縁《ふち》から二尺ばかり手前まで出て、足を揃《そろ》えたから、もう留まるだろうと見ていると、また出した。余る所は一尺しきゃあない。その一尺へまた五寸ほど
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