どてら」に傍点]が云ってる。本当なんだか御世辞なんだかちょっと見当《けんとう》がつかなかった。とにかく饅頭はどうでも構わないから、肝心《かんじん》の労働問題を聞糾《ききただ》して見ようと思って、
「先刻《さっき》の御話ですがね。実は僕もいろいろの事情があって、働いて飯を食わなくっちゃならない身分なんですが、いったいどんな事をやるんですか」
とこっちから口を切って見た。どてら[#「どてら」に傍点]は正面の菓子台を眺《なが》めていたが、この時急に顔だけ自分の方へ向けて
「君、儲《もう》かるんだぜ。嘘《うそ》じゃない、本当に儲かる話なんだから是非やりたまえ」
と、またぞろ自分を君|呼《よば》わりにして、しきりに儲けさせたがっている。こっちへ向き直って、自分を誘い出そうと力《つと》める顔つきを見ると、頬骨の下が自然《じねん》と落ち込んで、落ち込んだ肉が再び顎《あご》の枠《わく》で角張《かくば》っている。そこへ表から射し込む日の加減で、小鼻の下から弓形《ゆみなり》にでき上った皺《しわ》が深く映っている。この様子を見た自分は何となく儲《もう》けるのが恐ろしくなった。
「僕はそんなに儲けなくっても、いいです。しかし働く事は働くです。神聖な労働なら何でもやるです」
どてら[#「どてら」に傍点]の頬の辺《あたり》には、はてなと云う景色《けしき》がちょっと見えたが、やがて、かの弓形《ゆみなり》の皺を左右に開いて、脂《やに》だらけの歯を遠慮なく剥《む》き出して、そうして一種特別な笑い方をした。あとから考えるとどてら[#「どてら」に傍点]には神聖な労働と云う意味が通じなかったらしい。いやしくも人間たるものが金儲《かねもうけ》の意味さえ知らないで、こむずかしい口巧者《くちこうしゃ》な事を云うから、気の毒だと云うのでどてら[#「どてら」に傍点]は笑ったのである。自分は今が今まで死ぬ気でいた。死なないまでも人間のいない所へ行く気でいた。それができ損《そこな》ったから、生きるために働く気になったまでである。儲《もう》かるとか儲からないとか云う問題は、てんで頭の中にはない。今ないばかりじゃない、東京にいて親の厄介《やっかい》になってる時分からなかった。どころじゃない儲主義《もうけしゅぎ》は大いに軽蔑《けいべつ》していた。日本中どこへ行ってもそのくらいな考えは誰にもあるだろうくらいに信じていた。だからどてら[#「どてら」に傍点]がさっきから儲かる儲かると云うのを聞くたんびに何のためだろうと不思議に思っていた。無論|癪《しゃく》には障《さわ》らない。癪に障るような身分でもなし、境遇でもないから、いっこう平気ではいたが、これが人間に対する至大の甘言で、勧誘の方法として、もっとも利目《ききめ》のあるものだとは夢にも想《おも》い至らなかった。そこで、どてら[#「どてら」に傍点]から笑われちまった。笑われてさえいっこう通じなかった。今考えると馬鹿馬鹿しい。
一種特別な笑い方をしたどてら[#「どてら」に傍点]は、その笑いの収まりかけに、
「お前さん、全体今まで働いた事があんなさるのかね」
と少し真面目な調子で聞いた。働くにも働かないにも、昨日《きのう》自宅《うち》を逃げ出したばかりである。自分の経験で働いた試しは撃剣《げっけん》の稽古《けいこ》と野球の練習ぐらいなもので、稼《かせ》いで食った事はまだ一日もない。
「働いた事はないです。しかしこれから働かなくっちゃあならない身分です」
「そうだろう。働いた事がなくっちゃ……じゃ、君、まだ儲けた事もないんだね」
と当り前の事を聞いた。自分は返事をする必要がないから、黙ってると、茶店のかみさんが、菓子台の後《うしろ》から、
「働くからにゃ、儲けなくっちゃあね」
と云いながら、立ち上がった。どてら[#「どてら」に傍点]が、
「全くだ。儲けようったって、今時そう儲け口が転がってるもんじゃない」
と幾分か自分に対して恩に被《き》せるように答えるのを、
「そうさ」
と幾分かさげすむように聞き流して、裏へ出て行った。このそうさ[#「そうさ」に傍点]が妙に気になって、ことによると、まだその後《あと》があるかも知れないと思ったせいか、何気なく後姿《うしろかげ》を見送っていると、大きな黒松の根方《ねがた》のところへ行って、立小便《たちしょうべん》をし始めたから、急に顔を背《そむ》けて、どてら[#「どてら」に傍点]の方を向いた。どてら[#「どてら」に傍点]はすぐ、
「私《わたし》だから、お前さん、見ず知らずの他人にこんな旨《うま》い話をするんだ。これがほかのものだったら、受合ってただじゃ話しっこない旨い口なんだからね」
とまた恩に被《き》せる。自分は、面倒くさいからおとなしく、
「ありがたいです」
と四角張って答えて置いた。
「実はこう云う口な
前へ
次へ
全84ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング