んだがね」
と、どてら[#「どてら」に傍点]が、すぐに云う。自分は黙って聞いていた。
「実はこう云う口なんだがね。銅山《やま》へ行って仕事をするんだが、私が周旋さえすれば、すぐ坑夫になれる。すぐ坑夫になれりゃ大したもんじゃないか」
自分は何か返事を促《うなが》されるような気がしたけれども、どうもどてら[#「どてら」に傍点]の調子に載《の》せられて、そうですとは答える訳に行かなかった。坑夫と云えば鉱山の穴の中で働く労働者に違ない。世の中に労働者の種類はだいぶんあるだろうが、そのうちでもっとも苦しくって、もっとも下等なものが坑夫だとばかり考えていた矢先へ、すぐ坑夫になれりゃ大したものだと云われたのだから、調子を合すどころの騒ぎじゃない、おやと思うくらい内心では少からず驚いた。坑夫の下にはまだまだ坑夫より下等な種属があると云うのは、大晦日《おおみそか》の後《あと》にまだたくさん日が余ってると云うのと同じ事で、自分にはほとんど想像がつかなかった。実を云うとどてら[#「どてら」に傍点]がこんな事を饒舌《しゃべ》るのは、自分を若年《じゃくねん》と侮《あなど》って、好い加減に人を瞞《だま》すのではないかと考えた。ところが相手は存外真面目である。
「何しろ、取附《とっつけ》からすぐに坑夫なんだからね。坑夫なら楽なもんさ。たちまちのうちに金がうんと溜《たま》っちまって、好な事が出来らあね。なに銀行もあるんだから、預けようと思やあ、いつでも預けられるしさ。ねえ、御かみさん、初めっから坑夫になれりゃ、結構なもんだね」
とかみさんの方へ話の向《むき》を持って行くとかみさんは、さっき裏で、立ちながら用を足したままの顔をして、
「そうとも、今からすぐ坑夫になって置きゃあ四五年立つうちにゃ、唸《うな》るほど溜るばかりだ。――何しろ十九だ。――働き盛りだ。――今のうち儲けなくっちゃ損だ」
と一句、一句|間《あいだ》を置いて独《ひと》り言《ごと》のように述べている。
要するにこのかみさんも是非坑夫になれと云わぬばかりの口占《くちうら》で、全然どてら[#「どてら」に傍点]と同意見を持っているように思われた。無論それでよろしい。またそれでなくってもいっこう構わない。妙な事にこの時ほどおとなしい気分になれた事は自分が生れて以来始めてであった。相手がどんな間違を主張しても自分はただはいはいと云って聞いていたろうと思う。実を云うと過去一年間において仕出《しで》かした不都合やら義理やら人情やら煩悶《はんもん》やらが破裂して大衝突を引き起した結果、あてどもなくここまで落ちて来たのだから、昨日《きのう》までの自分の事を考えると、どうしたって、こんなに温和《おとな》しくなれる訳がないのだが、実際この時は人に逆《さから》うような気分は薬にしたくっても出て来なかった。そうしてまたそれを矛盾とも不思議とも考えなかった。おそらく考える余裕がなかったんだろう。人間のうちで纏《まとま》ったものは身体《からだ》だけである。身体が纏ってるもんだから、心も同様に片づいたものだと思って、昨日と今日《きょう》とまるで反対の事をしながらも、やはりもとの通りの自分だと平気で済ましているものがだいぶある。のみならずいったん責任問題が持ち上がって、自分の反覆《はんぷく》を詰《なじ》られた時ですら、いや私の心は記憶があるばかりで、実はばらばらなんですからと答えるものがないのはなぜだろう。こう云う矛盾をしばしば経験した自分ですら、無理と思いながらも、いささか責任を感ずるようだ。して見ると人間はなかなか重宝《ちょうほう》に社会の犠牲になるように出来上ったものだ。
同時に自分のばらばらな魂がふらふら不規則に活動する現状を目撃して、自分を他人扱いに観察した贔屓目《ひいきめ》なしの真相から割り出して考えると、人間ほど的《あて》にならないものはない。約束とか契《ちかい》とか云うものは自分の魂を自覚した人にはとても出来ない話だ。またその約束を楯《たて》にとって相手をぎゅぎゅ押しつけるなんて蛮行は野暮《やぼ》の至りである。大抵の約束を実行する場合を、よく注意して調べて見ると、どこかに無理があるにもかかわらず、その無理を強《しい》て圧《お》しかくして、知らぬ顔でやって退《の》けるまでである。決して魂の自由行動じゃない。はやくから、ここに気がついたなら、むやみに人を恨《うら》んだり、悶《もだ》えたり、苦しまぎれに自宅《うち》を飛び出したりしなくっても済んだかも知れない。たとい飛び出してもこの茶店まで来て、どてら[#「どてら」に傍点]と神さんに対する自分の態度が、昨日までの自分とは打って変ったところを、他人扱いに落ち着き払って比較するだけの余裕があったら、少しは悟れたろう。
惜しい事に当時の自分には自分に対する研究心と云う
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