枚《いちめえ》借りて来てやったから、此服《こいつ》を着るがいい」
と云いながら、例の筒袖《つつそで》を抛《ほう》り出した。
「そいつが上だ。こいつが股引《ももひき》だ。そら」
とまた股引を抛《な》げつけた。取りあげて見ると、じめじめする。所々に泥が着いている。地《じ》は小倉《こくら》らしい。自分もとうとうこの御仕着《おしきせ》を着る始末になったんだなと思いながら、絣《かすり》を脱いで上下《うえした》とも紺揃《こんぞろい》になった。ちょっと見ると内閣の小使のようだが、心持から云うと、小使を拝命した時よりも遥《はるか》に不景気であった。これで支度《したく》は出来たものと思込んで土間へ下りると、
「おっと待った」
と、初さんがまた勇み肌の声を掛けた。
「これを尻《けつ》の所へ当てるんだ」
初さんが出してくれたものを見ると、三斗俵坊《さんだらぼ》っちのような藁布団《わらぶとん》に紐《ひも》をつけた変挺《へんてこ》なものだ。自分は初さんの云う通り、これを臀部《でんぶ》へ縛《しば》りつけた。
「それが、アテシコ[#「アテシコ」に傍点]だ。好《よ》しか。それから鑿《のみ》だ。こいつを腰ん所へ差してと……」
初さんの出した鑿を受け取って見ると、長さ一尺四五寸もあろうと云う鉄の棒で、先が少し尖《とが》っている。これを腰へ差す。
「ついでにこれも差すんだ。少し重いぜ。大丈夫か。しっかり受け取らねえと怪我をする」
なるほど重い。こんな槌《つち》を差してよく坑《あな》の中が歩けるもんだと思う。
「どうだ重いか」
「ええ」
「それでも軽いうちだ。重いのになると五斤ある。――いいか、差せたか、そこでちょっと腰を振って見な。大丈夫か。大丈夫ならこれを提《さ》げるんだ」
とカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を出しかけたが、
「待ったり。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の前に一つ草鞋《わらじ》を穿《は》いちまいねえ」
草鞋《わらじ》の新しいのが、上り口にある。さっき婆さんが振《ぶ》ら下げてたのは、大方これだろう。自分は素足《すあし》の上へ草鞋を穿《は》いた。緒《お》を踵《かかと》へ通してぐっと引くと、
「駑癡《どじ》だなあ。そんなに締める奴があるかい。もっと指《いび》の股を寛《ゆる》めろい」
と叱られた。叱られながら、どうにか、こうにか穿いてしまう。
「さあ、これでいよいよおしまいだ」
と初さんは饅頭笠《まんじゅうがさ》とカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を渡した。饅頭笠と云うのか筍笠《たけのこがさ》というのか知らないが、何でも懲役人の被《かぶ》るような笠であった。その笠を神妙《しんびょう》に被る。それからカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を提《さ》げる。このカンテラ[#「カンテラ」に傍点]は提げるようにできている。恰好《かっこう》は二合入りの石油缶《せきゆかん》とも云うべきもので、そこへ油を注《さ》す口と、心《しん》を出す孔《あな》が開《あ》いてる上に、細長い管《くだ》が食っついて、その管の先がちょっと横へ曲がると、すぐ膨《ふく》らんだカップ[#「カップ」に傍点]になる。このカップ[#「カップ」に傍点]へ親指を突っ込んで、その親指の力で提げるんだから、指五本の代りに一本で事を済ますはなはだ実用的のものである。
「こう、穿《は》めるんだ」
と初さんが、勝栗《かちぐり》のような親指を、カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の孔の中へ突込《つっこ》んだ。旨《うま》い具合にはまる。
「そうら」
初さんは指一本で、カンテラ[#「カンテラ」に傍点]を柱時計の振子のように、二三度振って見せた。なかなか落ちない。そこで自分も、同じように、調子をとって揺《うごか》して見たがやっぱり落ちなかった。
「そうだ。なかなか器用だ。じゃ行くぜ、いいか」
「ええ、好《よ》ござんす」
自分は初さんに連れられて表へ出た。所が降っている。一番先へ笠《かさ》へあたった。仰向《あおむ》いて、空模様を見ようとしたら、顎《あご》と、口と、鼻へぽつぽつとあたった。それからあとは、肩へもあたる。足へもあたる。少し歩くうちには、身体中じめじめして、肌へ抜けた湿気が、皮膚の活気で蒸《む》し返される。しかし雨の方が寒いんで、身体のほとぼりがだんだん冷《さ》めて行くような心持であったが、坂へかかると初さんがむやみに急ぎ出したんで、濡《ぬ》れながらも、毛穴から、雨を弾《はじ》き出す勢いで、とうとうシキ[#「シキ」に傍点]の入口まで来た。
入口はまず汽車の隧道《トンネル》の大きいものと云って宜《よろ》しい。蒲鉾形《かまぼこなり》の天辺《てっぺん》は二間くらいの高さはあるだろう。中から軌道が出て来るところも汽車の隧道《トンネル》に似ている。これは電車が通う路なんだそうだ。自分は入口の前に立って、奥の方を透《す》かして
前へ
次へ
全84ページ中54ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング