見た。奥は暗かった。
「どうだここが地獄の入口だ。這入《はい》れるか」
と初さんが聞いた。何だか嘲弄《ちょうろう》の語気を帯びている。さっき飯場《はんば》を出て、ここまで来る途中でも、方々の長屋の窓から首を出して、
「昨日《きのう》のだ」
「新来《しんき》だ」
と口々に罵《ののし》っていたが、その様子を見ると単に山の中に閉じ込められて物珍らしさの好奇心とは思えなかった。その言葉の奥底にはきっと愚弄《ぐろう》の意味がある。これを布衍《ふえん》して云うと、一つには貴様もとうとうこんな所へ転げ込んで来た、いい気味だ、ざまあ見ろと云う事になる。もう一つは御気の毒だが来たって駄目だよ。そんな脂《やに》っこい身体《からだ》で何が勤まるものかと云う事にもなる。だから「昨日《きのう》のだ」「新来《しんき》だ」と騒ぐうちには、自分が彼らと同様の苦痛を甞《な》めなければならないほど堕落したのを快く感ずると共に、とうていこの苦痛には堪《た》えがたい奴だとの軽蔑《けいべつ》さえ加わっている。彼らは他人《ひと》を彼らと同程度に引き摺《ず》り落して喝采《かっさい》するのみか、ひとたび引き摺り落したものを、もう一返《いっぺん》足の下まで蹴落《けおと》して、堕落は同程度だが、堕落に堪《た》える力は彼らの方がかえって上だとの自信をほのめかして満足するらしい。自分は途上《みちみち》「昨日のだ」と聞くたんびに、懲役笠《ちょうえきがさ》で顔を半分隠しながら通り抜けて、シキ[#「シキ」に傍点]の入口まで来た。そこで初さんがまた愚弄《ぐろう》したんだから、自分は少しむっとして、
「這入《はい》れますとも。電車さえ通《かよ》ってるじゃありませんか」
と答えた。すると初さんが、
「なに這入れる? 豪義《ごうぎ》な事を云うない」
と云った。ここで「這入れません」と恐れ入ったら、「それ見ろ」と直《すぐ》こなされるにきまってる。どっちへ転んでも駄目なんだから別に後悔もしなかった。初さんは、いきなり、シキ[#「シキ」に傍点]の中へ飛び込んだ。自分も続いて這入った。這入って見ると、思ったよりも急に暗くなる。何だか足元がおっかなくなり出したには降参した。雨が降っていても外は明かるいものだ。その上|軌道《レール》の上はとにかく、両側はすこぶる泥《ぬか》っている。それだのに初さんは中《ちゅう》っ腹《ぱら》でずんずん行く。自分も負けない気でずんずん行く。
「シキ[#「シキ」に傍点]の中でおとなしくしねえと、すのこ[#「すのこ」に傍点]の中へ抛《ほう》り込まれるから、用心しなくっちゃあいけねえ」
と云いながら初さんは突然暗い中で立ち留《どま》った。初さんの腰には鑿《のみ》がある。五斤の槌《つち》がある。自分は暗い中で小さくなって、
「はい」
と返事をした。
「よしか、分ったか。生きて出る料簡《りょうけん》なら生意気にシキ[#「シキ」に傍点]なんかへ這入らねえ方が増しだ」
 これは向うむきになって、初さんが歩き出した時に、半分は独《ひと》り言《ごと》のように話した言葉である。自分は少からず驚いた。坑《あな》の中は反響が強いので、初さんの言葉がわんわんわんと自分の耳へ跳《は》ねっ返って来る。はたして初さんの言う通りなら、飛んだ所へ這入ったもんだ。実は死ぬのも同然な職業であればこそ坑夫になろうと云う気も起して見たんだが、本当に死ぬなら――こんな怖《こわ》い商売なら――殺されるんなら――すのこ[#「すのこ」に傍点]の中へ抛《な》げ込まれるなら――すのこ[#「すのこ」に傍点]とは全体どんなもんだろうと思い出した。
「すのこ[#「すのこ」に傍点]とはどんなもんですか」
「なに?」
と初さんが後《うしろ》を振り向いた。
「すのこ[#「すのこ」に傍点]とはどんなもんですか」
「穴だ」
「え?」
「穴だよ。――鉱《あらがね》を抛《ほう》り込んで、纏《まと》めて下へ降《さ》げる穴だ。鉱といっしょに抛り込まれて見ねえ……」
で言葉を切ってまたずんずん行く。
 自分はちょっと立ち留った。振り返ると、入口が小さい月のように見える。這入《はい》るときは、これがシキ[#「シキ」に傍点]ならと思った。聞いたほどでもないと思った。ところが初さんに威嚇《おど》かされてから、いかな平凡な隧道《トンネル》も、大いに容子《ようす》が変って来た。懲役笠《ちょうえきがさ》をたたく冷たい雨が恋しくなった。そこで振り返ると、入口が小さい月のように見える。小さい月のように見えるほど奥へ這入ったなと、振り返って始めて気がついた。いくら曇っていてもやっぱり外が懐《なつ》かしい。真黒な天井《てんじょう》が上から抑《おさ》えつけてるのは心持のわるいものだ。しかもこの天井がだんだん低くなって来るように感ぜられる。と思うと、軌道《レール》を横へ切れて、右へ
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